震度7の元禄地震と富士山噴火~神様として祀られた伊奈忠順

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江戸時代の1703年12月31日(新暦)に、マグニチュード7.9~8.2と推定される元禄大地震が発生。
三浦半島と房総半島の一部は隆起。
小田原で震度7と推定され、小田原城下の被害がもっとも多く、小田原城天守閣も倒壊・炎上。
熱海では約7mの津波が発生し、500戸あった住宅で残ったのが10戸程度になったと言う。地震による死者5200人(推定)。

1707年10月28日(新暦)には、日本最大の地震と言われる宝永大地震が発生。マグニチュードは推定8.4~8.6、死者2800~20000人。
関東から九州に津波。
伊豆下田では5~7mの津波が襲来し、912戸のうち857戸が流失。
紀伊半島東岸では推定5~10m、紀伊半島西岸でも推定4~6m。徳島・高知沿岸でも5~8mと、津波による被害が甚大であった。

宝永大地震の余震が続く中、1707年12月16日朝10時頃、富士山が噴火を始める。
宝永大噴火である。噴火の3~4日前からは有感地震が頻繁に発生し、有感地震の回数は噴火前日の午後から急増した。


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江戸でも約4日間火山灰が降り、約4cm積もった模様。海老名・横浜約16cm。
相模原市域は3~16cmで、風の影響であろう、北部になるほど少なかったようだ。
御殿場では100cm以上火山灰が積もり村は壊滅。

火山灰の降灰分布図

小田原藩は地震と噴火で領内に大打撃を受け、当初藩費で救済・復興をしたものの、災害規模が大きく、農民が幕府に直訴する構えを見せたので、藩単独での復興を断念し、幕府に助けを求めた。

その助けを聞き入れ、幕府は全国の大名から臨時課税(100石につき2両)を取り、480000両を集め復興資金にしたが、酒井川改修に約60000両、被災住民に渡ったのは8000両程度、そして残りの大半は幕府財政の建て直しに使われたと言う。

なお、幕府は江戸城改修、河川改修などの工事を担当していた関東奉行・伊奈忠順(いな-ただのぶ)を復興総奉行として小田原に派遣し、主に酒匂川の改修を行った。

しかし、もっとも被害が大きかった駿東郡足柄・御厨地方に充分な救済が行われず、飢餓に苦しむ農民が倒れていくのを見て見ぬふりができず、伊奈忠順は独断で駿府・紺屋町の幕府の米倉を開き、13000石もの米を村々の飢民へ分配した。
当然許可を得ていた行為ではなかった為、伊奈忠順は罷免され切腹。
その後、御殿場付近が完全に復興したのは約80年後であった。

伊奈忠順に助けられた農民たちは、感謝の気持ちから1867年に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県小山町須走)に伊奈神社を建立し伊奈忠順の菩提を弔った。
時は流れ、大正時代になって当時の業績は評価され、当時の日本政府より伊奈忠順は従五位下に叙せられている。

なお、1707年の宝永大地震は関東から九州まで被害が出ていることから、東海・東南海・南海の3つの地震がほぼ同時に発生したと考えられる。
その後1852年には安政東海地震(M8.4推定)が発生し、その32時間後に安政南海地震(M8.4推定)と連続して発生。
約150年周期で大地震が発生している。
次に起こる地震=1852年の150年後と計算すると2002年であり、明日・あさってと、いつ大地震が発生してもおかしくない。

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