第2次世界大戦【太平洋戦争】と相模原の歴史関係

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はじめに

 相模原には現在アメリカ軍施設などがありますが、そのアメリカ軍施設がなぜできたのかを辿ると、太平洋戦争前に相模原を「軍都」とすべく計画があったことがわかります。
 「星が丘」という地名は陸軍徽章の★に由来するとされ、戦前は陸軍の高官が1戸建てに住む地域でした。そんな相模原にできた軍施設を中心に、相模原の戦争時に関する歴史関係をご紹介致します。

突然の呼び出し

 相模原は首都・東京から近く地価の安い平坦地が広がっていた。
 1936年(昭和11年)6月27日、旧日本陸軍第1師団より呼び出しがあり、座間村、新磯村、大野村、麻溝村の各村長は、座間村役場に集合した。そして、陸軍経理部から来た川上三等主計正と高山一等主計と会議が開催される。
 「陸軍士官学校と練兵場の用地を買収したいのでよろしく」と言う内容だった。
 各村長はあまりにも突然の話なので驚き、地主とも相談したいと述べその日は解散した。
 大野村と座間村は僅かな土地を買収されるだけで、軍の学校が来れば地域は発展する計算もあり、さほど問題はなかった。
 しかし、新磯村と麻溝村は、耕作地である台地の大半が練兵場に取られてしまうことになり、農民の死活問題でもある為、大騒ぎになった。
 当時の日本は、さかのぼること3年前の1933年(昭和8年)に国際連盟脱退するなど、政情は緊迫しており、強くは反対できないと地主総会の結果、できれば候補地を変更して欲しいと言う陳情をすることになった。
 そして、陸軍から高山一等主計が麻溝村を訪れ、地主と直接の話し合いが行われた。人家に接する用地を少し除外するなどの配慮もあり、村人は「非常時だけに失業もやむなし」と、最後には「天皇陛下万歳!」を三唱して用地買収が決定した。
 新磯村でも、同様に高山一等主計が訪れて話し合いが持たれ、用地譲歩も麻溝村同様にあったが、村民は失業の賠償などで納得せず、陸軍側は「強制収用も辞さない」と宣言し、その日は閉会した。
 村長が反対派の各戸を回り、最後には上溝警察署の部長まで説得に出てきたので、最終的には村に一任すると言うことになり買収に応じることになった。


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相模原の軍都計画

 1930年後半以降、陸軍士官学校をはじめとする陸軍施設があいついで移転・開設された。
 この頃まで、養蚕を主とした貧しい農村から一転、軍事都市へ急速に発展することになる。神奈川県が中心となって区画整理事業に着手した。
 1939年(昭和14年)の相模原都市建設区画整理事業では、当時の相原村(小山・清兵衛新田・橋本)、大野村(上矢部・矢部新田・淵野辺)、上溝町、大沢村(下九沢)にまたがる535万坪(約17.7㎡)の区域に10万人が住む街を想定した壮大な軍都計画が行われた。
 現在の市役所通りになる、相模造兵廠西門と上溝とを結ぶ街路を縦の軸とし、これと直交する幅の広い街路を横の軸として計画的に街路が配置され、両軸となる街路の交差点付近には中央公園(現在の市役所付近)が計画された。区域内は住居地域、商業地域、工業地域(軍事施設を含む)に分けられ、推計人口10万のうち小学児童を約14000人と想定し小学校を14校、中等学校が3校整備される計画だった。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発すると、資金難・物資不足から整備工事は進まなくなり、幹線街路網の整備が進んだところで敗戦を迎えた。一時中断された区画整理事業は戦後も継続されて1950年(昭和25年)に完了し、相模原市役所一帯の区画ができあがった。

 横浜線が橋本駅から町田駅まで線路が一直線なのは、大正時代に広軌レールでの列車試験走行などに使用した、列車のテスト線も兼ねたからである。
 この大正時代からテストした広軌レールが、のちの高速鉄道として新幹線の技術で採用されることになったのは言うまでもない。横浜線は、昭和16年4月には全線電化された。
 また、横浜から途中まで日本陸軍が作った国道16号が小山から鵜野森までほぼ直線で、尚且つ清新から淵野辺まで「広く」取っていたのは、いざと言うとき道路を航空機の「滑走路」として活用する目的もあった。(実際には終戦まで滑走路としては活用されなかった。)
 ちなみに昭和18年頃道路を走る路線バスは、ガソリン不足から木炭車となり、馬力が弱く、津久井方面などの急な坂は登れず、乗客全員でバスを押す事も日常だった。
 相模ダム(相模湖)は、横須賀や相模原の軍需工場への電力供給の為、戦前1938年に着工。戦争中は人材・資材不足などもあり中断し、1947年(昭和22年)に完成した。


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 陸軍士官学校 → 座間キャンプ(在日アメリカ陸軍司令部など)
 相模陸軍造兵廠 → 在日アメリカ陸軍相模原補給廠
 陸軍兵器学校 → 麻布大学など
 陸軍航空技術飛行機速度検定所 → 矢部新田と淵野辺
 陸軍電信第1連隊(東部第88部隊) → 現米軍相模原住宅地区
 臨時東京第3陸軍病院(野戦病院) → 独立行政法人国立病院機構相模原病院
 陸軍通信学校 → 相模女子大など
 相武台陸軍病院 → アメリカ軍医療センター(返還) → グリーンホール相模大野など
 陸軍機甲整備学校 → キャンプ淵野辺(返還)→淵野辺公園など
 原町田憲兵分隊 → 淵野辺防災倉庫
 陸軍士官学校相武台演習場 → 北里大学、麻溝台工業団地、県公社相武台団地など
 米軍座間小銃射撃場 → 県立相模原公園
 陸軍第4技術研究所 → 矢部 ※終戦間際に完成
 陸軍航空技術研究所淵野辺飛行速度検定所 → 矢部新田34番地
 陸軍航空技術研究所上矢部飛行速度検定所 → 淵野辺?
 相模原集団住宅(造兵廠工員住宅) → 星が丘

相模陸軍造兵廠

 昭和13年8月13日開所式。昭和15年6月1日に相模兵器製造所から相模陸軍造兵廠に昇格した。
 太平洋戦争時、旧帝国陸軍造兵廠は東京第一・東京第二・相模・名古屋・大阪・仁川・南満の7箇所にあった。
 その中の1つが相模陸軍造兵廠(現在のアメリカ在日陸軍相模総合補給廠)である。当時は現在の相模総合補給廠よりも巨大な敷地を有しており、地下工場もあるなど、1937年に完成した相模陸軍造兵廠は最新軍需工場として、東洋一の規模と言われた。第1製造所では戦車の生産、第2製造所では中口径砲弾が作られた。
 昭和18年末には11300名が働きボール盤や旋盤での作業が中心だったが、食糧難の為、野積場では畑を作り野菜も収穫していたようだ。

 ノモンハンでソ連陸軍の近代装備を前に大敗した旧帝国陸軍が、ドイツ機甲師団の電撃作戦の戦果をみて、陸上戦での「戦車」の重要性を認識し、開発・製造を始めた。しかし、工業力と資源に乏しい日本は航空機生産優先の軍需政策を採らざるを得ず、戦車の改良などは常に後手に回わってしまい、戦闘機のように高性能な戦車の開発は遅れることになる。しかし、相模陸軍造兵廠は、砲弾や97式中戦車チハ(写真)、98式6トン牽引車、1944年12月頃からは本土決戦の切り札として3式中戦車も生産開始した。

 日本は当初中国大陸などでの戦車運用を想定。大陸で運用するには大量に戦車が必要な上、海上を戦車輸送する必要があり、輸送船に乗せても大丈夫な重量(約10トン程度)で大量生産可能なタイプの中戦車を生産するなど、装甲が厚くて防御力の高い重戦車を作ることができなかったが、1940年(昭和20年)三菱重工業丸子工場で完成した100トン重量戦車である大イ車(大型伊号車)を1量だけ試作した。
 この大イ車(大型伊号車)は、日本陸軍が対戦車戦闘を想定して、本格的に開発した四式中戦車の後継なのだ。
 主砲は105mmカノン砲1門、副砲に75mm砲1門、7.7mm重機関銃1丁の装備を予定。全長10m、幅4.2m、高さ4mと巨大な戦車で、乗員11人、前面装甲75mm。ドイツの有名なタイガーⅡ戦車の主砲は88mm砲なので、攻撃力はバツグンの戦車になるはずだった。
 この大イ車(大型伊号車)を1台作り、試験走行を相模造兵廠で行った事は有名である。当時、原乙末生少将も試験走行に立ち会った。しかし、戦車は大きく重さもある。廠内試走路では直進すると次第にキャタピラが自重で土の地面に沈み、走行不能に。また旋回する際にも沈み、車体の底が地面につき、断続的な旋回しかできず、走行中に下部転輪が次々と脱落した。なお、土の上でダメならばコンクリートの舗装路ではと、硬いコンクリート路面でも走行テストをしたが、日本の標準国道の道路幅では、キャタピラが道路脇からはみ出る上に、コンクリートが割れてこれまた沈下。走行した後はことごとく当時最新のコンクリート道路が破壊されていたと言う。結局、実戦投入は難しいと判断されシートを架けられ相模造兵廠で保管。この1台だけ作られた100トン戦車も、終戦間近の1944年(昭和19年)にバーナーで寸断解体され設計図も焼却処分された。
 このほかにも、三菱重工業東京機器製作所・三菱下丸子工場で製作された120トン戦車(大型イ号車、オイ車、ミト車)の試作車1輌が、終戦直前に相模陸軍造兵廠に搬入され試験が行われた。その後、シートを被せた状態で保管し、分解して満州に送付予定の所で終戦を迎えた。終戦直後に目撃した相模陸軍造兵廠の工員によると、砲も取り外され、既に半分スクラップ状態であったと言う。


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 1944年(昭和19年)に入ると満19歳で徴兵されることになる。また兵役法施行規則が改正され、満17歳以上の者から徴兵対象となり、満17才未満でも軍隊に志願が可能となる程戦局が悪化。
 工場の優秀な熟練工もしだいに兵役召集され、工場の要員も足りなくなり、7月7日サイパン島が玉砕するころには「決戦非常時措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」が施行され、陸軍造兵廠にも全国各地から学徒勤労動員が召集。2年間寮生活をし毎日生産に従事した。
 相模陸軍造兵廠でも工員の8割が徴用工、少年少女養成工、女子挺身隊、動員学徒であり終戦時には約3万人が働いていて、相模原各地の農家からも工員として徴用されていた。戦車の走行テストも学徒が行う状況。
 月産20台が目標だった97式中戦車チハ製造も、ついに15台を上回ることはなかった。

 風船爆弾を造る陸軍兵器学校の生徒や新潟県新発田などから来た女子挺身隊もおり、1日12時間労働、一週間ごとに夜勤と過酷な労働についた。しかし、資材不足などもあり作業が中断することもしばしばだったようだ。
 民間軍需工場ではなく陸軍直轄工場であることから、多少食料事情はよかったようだが、それでも毎日空腹だったと言う。

 大型バスも入れる巨大なトンネルの戦車壕(現在は撤去)があり、空襲警報が発令されると未完成の車両は退避壕に入り、労働者も防空壕に非難し、度々の警報で作業もはかどらなかったようだ。
 B-29の首都圏空襲の進入コースは天候などにより、富士山を目標に日本列島に入り、相模原上空を通過して行くコースもあった。しかし、度々の空襲警報が発令されても、実際に工場の上にB-29が来ないとしだい退避せずに作業を続けるようになったようだ。

 軍施設への給水が最優先の急務と工事を進めていた上水道は、資材や労働力不足の中、1945年(昭和20年)3月に完成し、相模原市域の一般住宅にも給水が開始されている点は特筆すべき事である。

 3月10日の東京大空襲は相模原からでも東の空が真っ赤に燃えてるのが見えたという。
 戦争末期には風船爆弾も相模造兵廠で生産していた。
 空襲で軍需工場の設備が破壊されるのを警戒して、軍需工場の一部機械は近くの学校の校舎や大きな建物などに分散させることにもなり、旭小学校でも教室や講堂の80%が陸軍に徴用され、講堂は相模造兵廠の機械が据え付けられ、子供たちが勉強する教室は、学校から農家の一室となり、各農家に分散して授業を受けた。
 アメリカ軍は、立川や茅ヶ崎などの軍需工場を空襲。また、相模原を通り越して、八王子市街地の空襲を行っていたが、相模原はアメリカ軍に重要視されていなかったのか? 攻撃予定前に終戦を迎えたのか? 比較的新しい設備の工場があったことから、占領後車両の修理などで使用する目的がすでにあったのか? 幸いにも相模造兵廠を含め相模原はB-29の爆撃などにあっていない。

 敷地内には当時近代的設備をもった造兵廠付属病院があった。その一部が現在相模更生病院として今でも医療活動をしているが、戦後でも医療を続けているのは全国の造兵廠付属病院のうち相模原だけと、当時の医療関係者の努力が伺い知れる。

 戦後、アメリカ占領軍の政策で、相模陸軍造兵廠にあった工作機械など2363台は、賠償品として中国・オランダ・フィリピンなどに渡った。2363台と言うと日本国内の軍需施設が賠償した約12%に当たる。

 相模陸軍造兵廠は戦前、橋本駅の横浜線車庫あたりから、矢部を通り越して、カルピス工場の辺りまでと、現在の規模より遥かに大きかった。淵野辺駅から線路を敷地内に引き、部品・物資の輸送などには鉄道が使用された。北側の境川をはさんで町田街道に面した門を正門として敷地内北部に事務所など管理機能を集中。戦後の米軍は、その後、機能した国道16号を使う都合上、西門を事実上の正門として使用している。


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 町田市にある現在の尾根緑道はかつて「戦車道路」と呼ばれ、週1度は戦車の走行テストが実施された。また、いよいよアメリカ軍の東京侵攻が懸念されると、海沿いの水際防衛では艦砲射撃に耐えられない為、内陸に防衛陣地を築くことになり、この戦車道沿いの丘地形を生かして首都東京の第一防衛線とする計画も持ち上がった。実際アメリカ軍も九十九里浜よりも、川を渡河する回数が少ない相模湾上陸に上陸部隊の主力を集中させる作戦予定だったようだ。
 戦車道路は戦後にも、相模補給廠で修理されたアメリカ軍戦車などのテストコースにも使われていた。戦車道路は国の所有地であったが、現在は町田市が借りて尾根緑道として一部公園整備され、散歩道になっている。相模原の眺めが良い場所もあるので、是非1度訪れて欲しい。

 矢部駅は、戦後アメリカ人が横浜線で相模総合補給廠に行くのに、現在の矢部駅の辺りで運転手に命じて列車を度々臨時停車させ、線路から列車に乗り降りしていたことから、ダイヤが守れず、また大変危険な事もあり、昭和25年9月に臨時駅として相模仮乗降場(現在の矢部駅)が開業し、現在に至っている。その為、淵野辺駅と矢部駅は駅建設の計画性が感じられない近さで、急遽作られた矢部駅周辺はこれらの理由から駅前として発展していない。

相模陸軍造兵廠長

 初代 小須田勝造 中将 (兼務) S15.8~S15.9
 砲兵将校から技術畑を歩んだ陸軍将校で陸軍兵器本部次長の時代に、一時的に廠長を兼務。後に、陸軍兵器本部長などを歴任し、S17.10の組織改正後には陸軍兵器行政本部長に勤めた。

 第2代 岡田資小将(在任中に中将) S15.9~S17.9 
 岡田資(おかだたすく)陸軍中将は、相模陸軍造兵廠長を努めたのち、日本初の戦車師団が編成されると第2戦車師団長(満州)に就任。その後、本土決戦に備え名古屋を守備する第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官で終戦を迎えた。
 岡田資が有名になったのは戦後だ。
 アメリカは東京以外の都市で名古屋ほど繰り返し爆撃した都市はない。アメリカ調査では21回(名古屋市調査では38回)爆撃し、そのうち6回は無差別爆撃であった。市街地の約24%が灰となり、死者は延べ8000人を超え、名古屋城も焼け落ちた。
 岡田資はその爆撃の際、撃ち落としたB-29から落下傘などで降下した搭乗員合計38名を正式な裁判なしに処刑した責任を問われ、戦後、B級戦犯として巣鴨プリズンに収監され、連合国による横浜裁判を受け、昭和24年9月17日絞首刑執行となった。
 戦勝国の論理で裁こうとする連合軍裁判では「国際法に違反する無差別爆撃(都市空爆)を行い、非戦闘員を殺した者のみ処刑した」と、当時の日本人が言えなかった無差別爆撃の違法性を堂々と主張。その一方では部下は命令に従っただけだと部下19名の減刑を願い、死刑を宣告されていた部下も釈放されるなど、部下全員の命を救い「最後の武人」と称された。
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 この裁判の模様は2008年に「【PR】明日への遺言 」と言う映画が公開された。
 S17.9~S17.10の間、廠長は欠員。

 第3代 原乙未生陸軍小将 (在任中に中将) S17.10~S20.4 
 原乙未生(はらとみお)中将は、まだ国産自動車などなく、技術力が低い中、日本で始めての国産戦車の設計・開発に携わり「日本戦車の父」と呼ばれる。戦車同士が戦う戦闘が地上戦の主な戦い方になる事を予期し、日本が想定していた古い戦闘手段(歩兵・騎兵中心)から戦車中心にすることを提案したが、旧帝国陸軍内では戦車は歩兵の支援と位置づけられ、結果的に原乙未生が考えていた陸上戦で理想的な戦車は日本では作られなかった。しかし、歩兵支援目的でも当時としては優秀な軽戦車、中戦車を開発したことでその名を知られ、第4技術研究所長を兼務し相模原でも製造を指揮した。

 第4代 土岐鉾治陸軍小将 (兼務) S20.4~
 よくわからないが、最後の相模陸軍造兵廠長。第4技術研究所長を兼務していた模様。

 終戦時将校は下記の通り

 相模陸軍造兵廠長 土岐鉾治 少将 (30期)
 庶務課長 阿部安理 大佐 (27期)
 作業課長 土岐鉾治 少将 (30期)
 会計課長 山崎 信 主計大佐
 第1製造所長 稲葉 哲 中佐 (31期)
 第2製造所長 那須倫彦 技術中佐




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相模原近辺の高射砲部隊

 調布飛行場 高射砲6門 一九〇三部隊調布隊
 片倉城跡(八王子市) 高射砲
 唐木田 (唐木田山王塚跡) 高射砲
 町田 (玉川学園敷地内) 高射砲
 湘南平(平塚) 12.7cm2連装2基高角砲4門、25mm2連装機銃1基2門、25mm単装機銃1基1門
 披露山(逗子) 高射砲3門
 南毛利砲台(厚木ぼうさいの丘公園) 12.7cm連装2基高角砲3問、弾200発、95式陸用高射器1問、98式4.5m高角測距儀1、96式110cm探照灯2、25mm機銃4門
 (海軍) 高座海軍工廠高射砲陣地(座間市さがみ野1丁目、ひばりが丘4丁目) 高射砲5門
 江ノ島 高射砲

上溝の防空監視所と相模原の被害

 昭和19年1月からは防空法の施行により、相模原市内でも延焼防止の為、各所で建物の取り壊しが行われる。
 B-29が本土空襲を始めると上溝の役場屋上に防空監視所が設けられた。
 昭和19年5月以降は、アメリカ軍艦載機(戦闘機)が、B-29護衛任務を果たしたあと、帰還する際に余った弾薬などで銃撃(機関銃による地上攻撃)などを、連日のように上溝地区など加えていたようだが、敵機による人的被害はなかったようだ。


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 昭和19年8月からは相模原への学童疎開が行われ、相模原市内の寺院は横須賀の児童を迎えた。
 焼夷弾による被害は、下溝大橋の農家が一戸焼失。
 日本軍の飛行機事故(空中衝突)による墜落で、清兵衛新田の家屋が焼失し2名死亡。
 太平洋戦争によって亡くなった相模原の住民は、従軍含んで約1400人、大野地区(淵野辺も入る)では376人との事。更に詳しいことがわかったら、この項目も更新したい。

相模原周辺に墜落したことが確認できるアメリカ軍航空機

 
 1945年4月2日、サイパンからB-29が、立川の中島飛行機武蔵製作所を夜間空襲。この作戦で、アメリカ空軍のB-29は、4機が撃墜され、2機は故障消失している。
 第20空軍第73爆撃団第500爆撃群第881爆撃隊所属のB-29 (搭乗員11名)が、中島飛行機武蔵製作所を空襲し立川方面から相模原方向への帰路の際、高射砲弾が直撃。町田高等女学校(現・町田高校)上空で空中爆発。尾部と左翼は同校校庭、右翼と胴体は本町田管原神社東に落下。
 付近にはガソリンが飛散して畑一面が火の海となり、機体の残骸はトラック10台で相模陸軍造兵廠へ運ばれたと言う。
 機長のLaw中尉はパラシュートが開かず墜落死。他の搭乗員はパラシュートで脱出し、無事降下したもの全員が日本軍により拘束。東部憲兵隊送りとなった。9人は東京陸軍刑務所に収容されたが、5月25日の東京空襲により刑務所が焼死。戦後帰国できたのはHopper軍曹だけであったと言う。
 他には、ほぼ同じ時刻に相模原では無く、川崎市生田に墜落した 第73爆撃団第498爆撃群第877爆撃隊 B-29 を、厚木基地・海軍第302航空隊 坂田喜三郎少尉操縦 北川良逸一飛曹同乗 月光が撃墜し、B-29搭乗員が、パラシュート降下中にパラシュートが炎上し、墜死した氏名不詳の1名が、相模原市上溝の安楽寺墓地に埋葬され、戦後アメリカ陸軍により回収された。また、同機の搭乗のOsborn軍曹(レーダー手)は、相模原市下溝で拘束され、東部憲兵隊司令部留置所に収監されたが4月18日に全身火傷から意識不明に陥り、回復の見込みなしとして、東部軍軍医部平野建二中尉により20日に毒殺処理され、小石川陸軍墓地に火葬埋葬されたと言う。他の搭乗員は戦死。

 1945年2月19日には、152機のB-29が立川の中島飛行機武蔵製作所を高高度昼間精密爆撃する為、浜名湖・富士山から八王子方面に進入。松戸飛行場から飛び立った陸軍飛行第53戦隊の第3飛行隊第4小隊長・広瀬治少尉(21歳)操縦の「屠竜」は丹沢上空8300mでB-29編隊を発見し、甲府上空辺りで移動中のB-29に攻撃開始した。
 屠竜は、二式複座戦闘機で、30mm機関砲などを備えていた。1機撃墜するも、全弾撃ち突く、右エンジンも被弾したことから、広瀬治少尉は、特攻出撃では無かったが、意を決して体当たり攻撃を敢行した模様。
 広瀬治少尉は、後部座席の加藤君男伍長に「加藤降りろ」「体当り」と叫び、B-29 目がけて突撃した。屠竜は、B-29に体当たり攻撃すると上野原市西原の阿寺沢に墜落し、広瀬治少尉は戦死。
 同乗の加藤君男伍長は、衝突寸前まで、無線で体当たり攻撃を信号を送信していたようで、衝撃で気絶したまま放り出され、落下中に落下傘が自然に開き、無意識のまま降下、八王子付近に降下したようだ。気がついたら病院のベッドの上だったという。
 一方、体当たり攻撃で墜落したのは、第73航空団500爆撃群第881爆撃隊所属 B-29 で、空中分解して破片が広範囲に落下し、乗員8名が戦死。付近にはB-29搭載の爆弾も不発のまま多数落下し、陸軍が爆破処理に来たと言う。
 WEISER軍曹は八王子市下恩方の恩方村役場裏山にパラシュート降下したものの既に死亡しており、浄福寺に埋葬。


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 EVANS二等軍曹は、恩方村上恩方の興慶寺南のヘビ山にパラシュート降下したものの逮捕。上恩方駐在所に連行された後、東京憲兵隊を経て大森捕虜収容所へ送られ、戦後米国へ帰還した。
 また、JANECEK軍曹は、翌日に西多摩郡檜原村で檜原警防団により発見され、福生憲兵分遣隊により、東京憲兵隊へ送られたが、3月6日に東京第一陸軍病院に入院。しかし、その後、3月6日に栄養失調と咽喉部ジフテリアにより死亡。東京小石川の陸軍墓地に埋葬。
 戦後、屠竜の墜落地付近に西原招魂社が建立され、広瀬少尉の慰霊碑が供えられた。1998年には由緒碑も追加され、当時、回収したB-29の破片や、屠竜の破片も保管されている。
 また、現在の八王子市鑓水付近には、1945年2月17日午前11時30分頃、空母・ランドルフの戦闘機 F6Fヘルキャット(機体番号72635) がゼロ戦の阪一等空曹戦の体当たり攻撃を受けて墜落。McCOWNEL海軍少尉はパラシュートで脱出したが、高度が低かったため地面にたたきつけられ頭部を重傷。捕虜となり、村人から立川憲兵隊員に引き渡され、東京都牛込の東京陸軍第一臨時病院に入院したが、22日に死亡し、東京小石川の陸軍墓地に埋葬された。
 阪一等空曹戦の期待も上柚木の畑に激突し、阪一等空曹戦死の地と言う碑が立っている。
 このように、相模原近辺でもアメリカ軍機と日本軍機とが、生死を掛けて、空中戦などを行っていた時代があったことを、しっかりと受け止めて頂きたい。八王子は1945年8月2日にB-29爆撃機169機により、空襲を受けている。日本本土空襲では3番目の焼夷弾投下量だったのだ。

風船爆弾

 風船爆弾は登戸陸軍研究所で開発された。全部を相模原で生産した訳ではなく、日本全国津々浦々で生産され、東京は日本劇場、東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館など天井が高い演劇場でも女子挺身隊などにより生産された。

 和紙をコンニャク糊で張り合わせた直径約10mの大きな風船に200キロ焼夷弾を積み、自動的に高度を調節する装置もつけて、水素を充填させたのが風船爆弾である。
 茨城や千葉などの海岸から飛ばし、偏西風に乗れば時速200kmの速度で飛び、太平洋を2~3日で横断したと言う。
 世界初の長距離大陸間移動兵器となったが、なにぶん風任せの兵器の為、9000個を放つもののアメリカ本土に到達したのは約1000個(300とする説も有)と戦果は奮わず、アメリカの被害と言えば送電線に風船が引っ掛かる、山火事になる程度の比較的軽微なものだった。
 死者としては、オレゴン州で女性1人、子供5人がピクニック中に木に引っかかっている爆弾部分を触り、爆発して死亡した例があり、第2次世界大戦中、アメリカ本土で唯一犠牲者が出た例となった。
 日本でも何十万人と多くの子供が空襲などで犠牲となったが、少なくともアメリカでも子供に犠牲者が出たのは本当に悲しいことであり、謹んで哀悼の意を表したい。
 なお、日本でも製造中に爆弾を誤って爆発させてしまったなどの事故により、日本人6名が殉職している。
 コンニャクは全国から徴収され、食卓からコンニャクが消えたが、アメリカ軍は糊(接着剤)に何が使われているのか終戦までわからなかったと言う。

陸軍士官学校

 
 昭和12年10月、旧日本陸軍士官学校の陸上部門が市ヶ谷から座間に1300名もの生徒が移転してきた。(航空部門は所沢に移転)
 昭和12年12月の第50期生卒業式に昭和天皇陛下が行幸され、この時、この地を「相武台」と命名された。


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 また、町田から相武台の道路は、曲がりくねった道幅3m程度の狭い砂利道だったが、昭和天皇が士官学校に来ると言うことで、急遽拡幅され、当時としてはまだ大変珍しい全面コンクリート舗装となった。 この、天皇陛下の御為に作られた新しい道路は、現在の県道51号町田厚木線(主要地方道町田厚木線)で、今でも「行幸道路」と地元で呼ばれている。昭和天皇は町田駅までお召し列車で来て、自動車に乗り換えて陸軍士官学校を訪れたようだ。
 今の日本でも天皇陛下がお越しになると言うことで新しい道路を作ることがあり、今も昔も変わらない。
 現在は、在日アメリカ陸軍司令部がある「キャンプ座間」(座間キャンプ)となっている。
 2006年の米軍再編計画ではアメリカ陸軍第一軍団司令部が移転して来る事が決定。




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陸軍士官学校相武台演習場

 麻溝台・新磯野の入植地は、現在北里大学、麻溝台工業団地、県公社相武台団地などになっている。米軍座間小銃射撃場(1969年返還) は県立相模原公園。

陸軍兵器学校

 昭和13年8月に第1期工事完成。
 戦争末期には学生4000人、軍属1000人が収容されていた。
 淵野辺駅から続く「並木通り」は、陸軍兵器学校本部に行く為に新しく作られた道路だった。
 正門は現在の麻布大学の場所。

陸軍機甲整備学校

 昭和18年以降に移転したと考えられる。
 米軍キャンプ淵野辺(1974年返還)であったが、淵野辺公園、宇宙科学研究本部、県立弥栄東広告・弥栄西高校などになっている。

相模原住宅地区

 旧日本陸軍電信第1連隊が昭和14年1月13日に中野から移転していた。これら 陸軍電信第1連隊、陸軍通信学校、相武台陸軍病院の用地買収は昭和12年8月から始められたが、何月何日までに印鑑持参で集合せよと命令があり、行って見ると周囲には憲兵が立ち「軍用地として用地買収するから承諾せよ」と威圧的なものであった。
 陸軍電信第1連隊は、昭和16年11月15日付けで第25軍山下師団の指揮下に入り、残存将兵は通称:東部第88部隊と呼ばれた。

陸軍通信学校

 昭和13年11月第1期工事完成。
 現在の相模女子大の場所であり、小田急電鉄では江ノ島線と小田原線が分岐していた地点に昭和13年4月「通信学校駅」を新設した。現在の相模大野駅だ。




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国立相模原病院

 昭和13年4月、臨時東京第3陸軍病院(いわゆる野戦病院)として現在の場所に設立。
 臨時の野戦病院規格ではあったが、テントなどで診察する訳ではなく、3ヶ月と言う短期間で、バラック建物を建てた病院。
 しかも、規模は大病院以上であり、真新しい病棟だけで54棟・2767床もある、陸軍直轄病院である 5箇所の1つで、東日本最大の陸軍病院であった。
 当時は日本全国で最大級の2767床。最大収容患者数は計画では5000名程度だったが、6000名を超えたこともあったが、ほとんどが戦地からの傷病兵だった。
 天皇が唯一お見舞いに訪れた病院でも知られ、病院職員は2200名前後いたが、看護婦は5~6名しかいなかったと言う。


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 看護婦が少ないと言うのは、重症患者向け病院では無く、日常生活は自分で可能な患者 = リハビリを目的とした病院であったからだ。
 よって、運動場では毎日ラジオ体操が行われ、娯楽として演芸場や相撲場・プールなどもあり、職業訓練も行われ、退院時には原隊復帰か、民間企業などへ就職して行ったと言う。
 敷地は、現在の国立相模原病院の3倍あった。

sagami

相武台陸軍病院

 昭和15年3月開設。陸軍直轄病院より1ランク下になる陸軍一等病院で、全国にある4箇所ある陸軍一等病院の1つ。300床。当初は原町田陸軍病院と言われたが、地元の要望により昭和16年には相模原陸軍病院と改称されていた。収容人員は終始250名程度だった。
 戦後は米陸軍医療センター(1981年返還)となり、現在、グリーンホール相模大野、外務省研修所、県立相模大野高校、住宅団地が建つ。

その他

 現在の相模原公園や北里大学の敷地は、陸軍士官学校に併設された陸軍練兵場だった。特に相模原公園の窪み(崖)は、機関銃や歩兵銃の発射訓練に使用された。
 相模原駅は小田急線の駅名だったが、軍都計画でその中心となる駅を国鉄の横浜線に設置することになり,その駅名を相模原駅(現在の横浜線相模原駅)と国策で決定。
 小田急線の相模原駅はやむなく「小田急相模原」と駅の名前を改称した。

余談 こどもの国

 神奈川県に子供の頃からお住まいの方なら、誰もが訪れたことがあるであろう「こどもの国」は、旧日本陸軍の日本最大規模を誇る弾薬製造・貯蔵施設であった。東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・田奈填薬所と言う。こどもの国にあるトンネルなども、その当時に作られた名残りである。
 1938年に国家総動員法により全戸立ち退き命令。1941年から使用開始したが、工事に携わった1000人のうち、900人は朝鮮人であり、強制労働ではなかったようだが、現存する数々の貯蔵庫も素掘りしたとの事で過酷な労働だったようだ。
 終戦間際には、相模湾に上陸すると予想されたアメリカ軍を迎え撃つ為の首都防衛拠点として更に防御を強固とした。
 現在もこどもの国園内には、弾薬貯蔵庫跡が多数あり、訪れると誰でもわかる。
 戦後はアメリカ軍に接収され、完成弾の貯蔵庫となったが、その後機能は池子弾薬庫(逗子)に移され、使われていなかったところを平成天皇の結婚記念事業としてこどもの国となり開園した。


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 横浜線・長津田駅からこどもの国に繋がる鉄道「こどもの国線」は、ご想像の通り、弾薬輸送の為に作られた線路である。
 愛川町の内陸工業団地は、戦時中、陸軍の相模陸軍飛行場(陸軍中津飛行場)として、滑走路があった。
 四式戦疾風の訓練用の基地となり特別攻撃隊の養成訓練が実施されている。

 
 以上、相模原にもこのような時があったことが後世に末永く伝わり、平和がずっと続く事を願いつつ、辛い思いをする人がいなくなる世の中になる事を期待したい。

 参考

 学徒勤労動員HP、横浜線の昔HP、相模原の歴史(座間美都治著)

> 相模原の戦国時代ヒストリア