相模原の江戸時代 (6) 目まぐるしく変わった領主
これまで、全5ページに渡り、相模原市内各地の街の江戸時代について触れてきたが、幕末まで相模原各地の支配者が固定した訳ではなく、改易などで、相模原市内の各地も支配者がめまぐるしく変わることになる。大半の領主は本貫地(本領地)が別の土地(藩など...
これまで、全5ページに渡り、相模原市内各地の街の江戸時代について触れてきたが、幕末まで相模原各地の支配者が固定した訳ではなく、改易などで、相模原市内の各地も支配者がめまぐるしく変わることになる。大半の領主は本貫地(本領地)が別の土地(藩など...
相原・矢部・淵野辺徳川家康関東移封の1590年当時は、徳川家の直轄地で、代官頭として彦坂元正(彦坂小刑部元正)(?~1634年)が統治した。彦坂元正の父・彦坂光景は今川家・今川義元に仕えていたが、今川家没落後は父子とも徳川家康に仕え、奉行と...
鶴間徳川家旗本の大岡義成(大岡吉重郎義成)(?~1598年)が上鶴間360石のうち300石で入る。残りの60石は徳川家直轄地。大岡氏は鶴間以外は知行しておらず、鶴間が本貫(本領)である。のち330石に加増された大岡氏は「矢口」を中心に江戸末...
下九沢 1698年からは、佐野勝由(佐野信濃守勝由)と、加藤明教(加藤三左衛門明教)の2人が下九沢を分割知行して幕末に至った。 加藤氏は、書院番を勤め、所領は下野国都賀郡内の6村が中心で、相模国では4村のうち、1つがこの下九沢52石であっ...
上溝・下溝 1590年当時は、約5000石を領した青山忠成(1551年9月6日~1613年4月10日)の1領地となる。他には、今泉村(海老名市)、小稲葉村(伊勢原市)、城所村(平塚市)などを領した。 青山忠成は三河国額田郡百々村(現在の愛知...
1590年小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、相模国も徳川家を中心に知行された。その後、1700年代後半まで約200年間、相模原も領主が目まぐるしく変わる時代が続いた。 まずは徳川家康が関東に入った1590年からの相模原をご紹介...
阿部正喬(1672年4月28日~1750年7月26日)は、武蔵・忍藩主で老中も勤めた阿部正武の長男。 1699年9月28日奏者番兼寺社奉行。1704年10月29日忍藩相続。奏者番、寺社奉行辞任。 6代将軍徳川家宣の時、1711年4月11日...
相模原市の津久井城に近い津久井又野に城山(245m)と呼ばれる場所があります。 又野城山とも呼ばれます。 天然の要害地形であり、相模川と道志川の合流点である沼本の渡しから三ヶ木へと津久井街道を登ってくる敵を高所から迎撃できる有利な防衛線陣...
相模原の津久井・道志川と串川の間にある仙洞寺山583mは「火海(ひうみ)峠」と呼ばれ、この山が津久井城と伏馬田城との中間点に位置することからも、烽火台として使用したと考えられます。 津久井には、烽火の火が消えず、付近一帯の山が本当に火に...
伏馬田城主だった尾崎掃部助の子孫は、北条氏滅亡後、又野(現在の津久井湖畔)に移住し、江戸時代初期には又野村の長となった。その後明治初期、尾崎氏の子孫に尾崎行雄(尾崎咢堂)と言う政治家が現れる。尾崎行雄は1858年又野で生まれた。尾崎咢堂の身...