相模原の江戸時代 (2) 上溝・下溝

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上溝・下溝

 1590年当時は、約5000石を領した青山忠成(1551年9月6日~1613年4月10日)の1領地となる。他には、今泉村(海老名市)、小稲葉村(伊勢原市)、城所村(平塚市)などを領した。

 青山忠成は三河国額田郡百々村(現在の愛知県岡崎市)出身。1585年2代将軍・徳川秀忠の傅役。1592年関東総奉行。一時は江戸奉行も兼任し18000石。

 青山忠成の長男・青山忠俊は、3代将軍・徳川家光の養育係となり、将軍の世継ぎ問題では春日局と協力した功労者だ。1619年には江戸防衛で重要な岩槻城主となり45000石の大名となった。しかし、徳川家光が将軍になった1623年の10月に原因は不明だが突然謹慎処分となり所領没収。謹慎後の青山忠俊は、一時網戸(下総)にいたが、その後この下溝の天応院の門前に長屋を建て、青山忠俊主従と約10ヶ月生活した。その後、徳川家光も反省し1632年に赦免され、青山忠俊の子、青山宗俊、青山宗佑が徳川家に仕えた。

 青山氏は蒲生氏の一族で、子孫には丹波篠山6万石、郡上八幡52000石で大名家になった人物もおり、嫡流の多くが幕閣の重職についた。
 ちなみに、東京の青山の地名は、原宿村にあった「青山氏の上げ地」と呼ぶべきを青山と省略して呼んだ事から名づいている。

 伝統のある 上溝の夏祭り も毎年7月に盛大に開催されます。

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