1590年小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、相模国も徳川家を中心に知行された。その後、1700年代後半まで約200年間、相模原も領主が目まぐるしく変わる時代が続いた。
まずは徳川家康が関東に入った1590年からの相模原をご紹介しつつ、江戸時代の相模原について、全6ページ渡り、できる限り詳しく記載する。
大島・田名・当麻・磯部・新戸
北条滅亡後の1590年当時、相模では座間を中心に鎌倉から津久井までの各村約5000石を治めていた内藤清成(1555年~1608年)の一領地となる。他には座間宿村(座間市)などがあり「相州当麻五千石」と呼ばれた。
内藤清成は1592年、本多正信や青山忠成らとともに関東総奉行になった。
相模原市新戸には内藤清成が設けたとされる新戸陣屋跡があり、相模原の新戸村、磯部村、当麻村、田名村、大島村を領する役所として活用したようだ。新戸陣屋には、小田原北条氏時代には座間一帯を治めていた名主の安藤主水を代官に起用。
内藤清成は、1601年加増され、常陸・下総・上総・相模の4国内に21000石になる。
しかし、江戸付近の禁猟地で百姓が鳥を捕まえる為の罠や網を仕掛けるのを許可した罪=禁制を破った罪で、徳川家康の勘気を受け罰せられた。
元々、内藤清成の判断は農作物を荒らす鳥害に苦しんでいる農民に対しての救済処置であったが、徳川家康はそれを承知した上で、幕府の権威を示す為、あえて重臣を罰したと言われている。それゆえに、所領没収にはならなかった。
内藤清成の子・内藤清次は3代将軍になる徳川家光の守役となり出仕。
1608年内藤清成が死去後、内藤清成の子・内藤清次は、常陸国などに26000石を拝領。それ以降、大島・田名・当麻・磯部・新戸は別の旗本が領したようである。
内藤清次は3代将軍・徳川家光の頃、幕府最高職の老中にまでなった。内藤清次の弟・内藤清政は安房勝山藩3万石初代藩主。
ちなみにも東京の新宿も内藤氏の領地(内藤新宿)であった。