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相模原の新田開発と呼ばわり山

 江戸時代後期になると、各藩や幕府の財政を立て直す為、石高を上げる施策として「新田開発」が全国で行われました。 新田開発とは、その名の通り、新しい田んぼを作って、収穫を上げることです。 水の確保が難しい相模原で新田開発?と思われるかも知れま...

大久保教寛・大久保教平

 大久保教寛(1657年~1737年12月17日)は、老中で小田原藩主・大久保忠朝(1632~1712)の次男で、1706年10月15日、江戸城西の丸の若年寄に就任し11000石になり分家。松永藩(のちの荻野山中藩)初代藩主となった。 17...

下溝・新戸を領した井上正長

 井上正長(1654年~1720年)の父は美濃国郡上藩主・井上正任(井上正利の子)で井上正長はその三男。母は本多忠義の娘。兄に井上正岑(老中)がいる。 1693年、父・井上正任から3000石を分与されて交代寄合となり、6代将軍となる徳川家宣...

4代将軍に終身仕えた久世広之

 1659年、増山正利の後に相模原の領地を受け継いだのは久世広之(1609~1679)であった。 久世広之の父・久世広宣は今川義元→徳川家康と仕えた戦国時代の武将で、下総・上総国2500石の旗本になっていた。 久世広之3男であったが、のちに...

4代将軍と親戚になった増山正利

 増山正利(1623年~1662年)を語る前に、お楽の方(高島御前、宝樹院)を知って頂きたい。 お楽の父・青木三太郎利長は旗本・朝倉家に仕える下級武士であったが、主君の金を使い込み、禁猟だった鶴を撃ち死罪となった。 その後、母とお楽の方は江...

徳川忠長 相模原の一部も知行していた将軍の弟

将軍争いに敗れた徳川忠長徳川忠長(1606年~1633年)は徳川幕府二代将軍・徳川秀忠と正室・お江与の間に生まれた男児で、3男にあたる。お江与は、浅井長政とお市(織田信長の妹)の間に生まれた三女で、姉は茶々=豊臣秀吉の側室・淀殿。徳川忠長の...

内藤氏・青山氏の転封後の江戸時代相模原領主

 江戸時代 内藤氏・青山氏の転封後 内藤氏・青山氏の転封後には、その領地は1615年~1623年頃、一時、幕府直轄領となった。相模原市域の直轄領は、代官・守屋行広(守屋定佐太夫行広)が支配した。守屋氏については、津久井城のコーナーで触れてい...