田名・大島などを幕末まで藩領とした大久保氏

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 大久保氏で最初に田名大島などを知行した大久保常春(1675年3月27日~1728年10月11日)は大久保忠高の次男として生まれ、父隠居に伴い1699年近江の内15000石を相続。その後、1711年側衆、1713年若年寄。1716年徳川吉宗が8代将軍となると、大久保常春に命じて鷹狩が復活した。

 1725年下野烏山藩に国替え、1728年5月15日老中となり、最終的に30000石となる。老中在職中死去。以後、烏山藩は幕末まで大久保家が藩主となった。

 1728年老中になり、10000石を加増された際に、烏山藩相模国所領として鎌倉郡9ケ村、高座郡(相模原市含む)13ケ村、大住郡7ケ村、愛甲郡10ケ村の合計39ケ村を知行する。その中に、淵野辺(一部)、上溝(一部)、大島、矢部新田、小山(一部)、下溝(一部)、田名が入っており、その統括として1729年頃厚木村天王町(現在の厚木市厚木町)に厚木陣屋を置いた。

 ちなみに、明治に入り1871年の廃藩置県により旧烏山藩領は烏山県に属し、烏山藩厚木陣屋はは烏山県厚木出張役場となり、その場所こそ移ったが、現在の厚木市役所に引き継がれていったのだ。

 また、水郷田名に残る「烏山用水」は、田名・大島・下溝(一部)・小山(一部)・淵野辺(一部)を幕末まで知行した烏山藩が行った1858年からの新田開発に由来している。

 ただ、烏山藩は1836年の記録では借金34000両と、藩財政が悪化していた為か、藩政は苛政と言われており、田名村でも烏山藩に貸したお金が1873年の時点で2600両未返済とある。領主などへの直訴は御法度の時代に、田那村民が烏山藩に直訴すると言う事件も起きたので、苦しい生活を強いられていたのではないかと推測できる。

 通貨価値参考:概ね1石=1両。現在の通貨価値に直すと、江戸幕府末期で1両=50000円程度と考えられる。

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