4代将軍と親戚になった増山正利

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 増山正利(1623年~1662年)を語る前に、お楽の方(高島御前、宝樹院)を知って頂きたい。

 お楽の父・青木三太郎利長は旗本・朝倉家に仕える下級武士であったが、主君の金を使い込み、禁猟だった鶴を撃ち死罪となった。
 その後、母とお楽の方は江戸に出て、古河藩主・永井尚政の屋敷に仕えて女中頭となったが、のちに母は古着商の七沢清宗と再婚。
 お楽も母に従い同居していたが、店の手伝いをしていたところ浅草参りから帰ってきた春日局の目にとまり、13歳で大奥に上がったとされる。(諸説あり)
 
 そのお楽は1641年に徳川家光の長男・竹千代(のちの徳川家綱)を産む。
 
 お楽の弟である増山正利は、姉が将軍後継者を生んだ為、親戚として1648年頃最初1000石で徳川家臣となる大立身となった。
 その後相模国で合計10000石の大名格に加増され、その際に、徳川忠長→松平信綱と知行していた大島・上九沢・下九沢上溝・下溝・当麻田名・新戸・磯部も与えられたようだ。
 
 1659年には三河・西尾藩20000石(愛知県西尾市)の藩主となり、世間もうらやむ様な出世振りである。増山氏の子孫は、常陸下館→伊勢長島と藩主を勤め、幕末まで残った。

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