尾崎行雄とは 伏馬田城主尾崎氏の子孫

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伏馬田城主だった尾崎掃部助の子孫は、北条氏滅亡後、又野(現在の津久井湖畔)に移住し、江戸時代初期には又野村の長となった。
その後明治初期、尾崎氏の子孫に尾崎行雄(尾崎咢堂)と言う政治家が現れる。尾崎行雄は1858年又野で生まれた。尾崎咢堂の身長は157㎝、体重はたったの34㎏ながらも、英語堪能。

明治時代の自由民権運動の代表的な政党である立憲改進党(党首:大隈重信)結成の創設に1882年参加。その後、東京退去命令によりイギリスに一時亡命する。(1889年憲法発令の恩赦で帰国)

1890年日本最初の国会総選挙に立候補し33歳で衆議院当選。当選回数連続25回、63年間在籍は国会議員世界記録。(2位はイギリスのチャーチル元首相)

1898年大隈重信内閣の時、40歳の若さで文部大臣。1903年~1912年、東京市長時代には東京の上下水道整備・水源確保、道路改良、市電開通などインフラを改善。

東京市長の際、日米友好の証としてアメリカに3000本の桜の木を送ったのは余りにも有名な話である。

第2次大隈内閣では司法大臣。戦前は次第に戦争へと向かう軍国主義に反発するように、普通選挙運動に参加。軍縮推進運動や治安維持法反対など行い、何度も暴漢に襲われたり、警察に睨まれたり、政界では孤立。

1943年昭和天皇に敬意を払わなかった罪(不敬罪)に問われ、1審で懲役8カ月執行猶予2年となったが、尾崎は「天皇を不敬したという罪を犯しているとすれば、刑が軽すぎる」として上告。1944年大審院で無罪確定。

「日本における最大の平和主義者」と海外で評価が高く、戦争末期、福沢諭吉や尾崎行雄の写真と名前をあげ「彼らの意見が正しい」とアメリカ軍はビラを日本の空に巻いた。

戦後も民主主義と世界平和の為、国会で活躍。1954年10月6日逗子の風雲閣で永眠。享年94。衆議院葬では両陛は下勅使を遣わす。北鎌倉の円覚寺・黄梅院に埋骨。

永年在職議員表彰第1号、衆議院名誉議員第1号(衆議院正面玄関に胸像)、東京都名誉都民第1号。

「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれている。

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これだけの政治家で首相になれなかったのは、尾崎咢堂はクリーンな政治家で、選挙区への利益誘導政治を行うこともなく、余りにも純粋すぎた為、敵も多かったからと言われている。

(参考文献)城と古戦場HP、ウイキペディア、尾崎咢堂記念館HPなど

伏馬田城(尾崎城) 尾崎掃部助の本拠
日本の歴史 武将・人物列伝