粟飯原氏 (藍原氏、相原氏)
相模原に進出した横山党は最初は相模原市城山町の小野を中心に栄え、その後、相原に本拠を移し、相原から市内各地に別れていったと考えられますので最初に紹介します。
平安末期の頃、横山本家の横山時重が粟飯原氏と改名していますので、相原に隠居でもしたのでしょうか? 相原の殿丸城(御殿峠城)を防御拠点として粟飯原に住んだ模様です。粟飯原氏(藍原氏・相原氏)と呼ばれたと言う説がありますが、横山時重の弟・横山孝遠が藍原二郎とも呼ばれていることから、小生は素直に考えて、横山孝遠が藍原に入って、藍原氏と名乗ったのものと推測しています。
相原という地名の意味は、もともと土地利用の中間地帯を示す意味の地名です。
現在の16号御殿峠付近に、城と言うよりは、多少防備目的でもあった「砦」があったのではと考えられますが、住居(御殿)があったとも考えられます。御殿峠の旧道は杉山峠と呼ばれていおり、八王子と相模国を結ぶ交通の要所でもあります。
しかし、相原の中心地は、七国峠を抜けた地であると考えられ、現在長福寺がある小高い山に防御目的もあった館があったとしても不思議ではありません。七国峠は鎌倉時代の街道と言う説があります。いずれにせよ、相模原市内にしては相原は昔から豊かな地でした。
横山時重の娘が、三浦半島の名門三浦氏一族の和田氏頭領・和田義盛の側室になった模様で、横山党は、三浦一族とも姻戚関係になり、北条家や源将軍家をはるかに凌ぐ巨大勢力となりました。
粟飯原太郎、粟飯小次郎、粟飯原藤五郎と言う人物が和田合戦で討死しています、それらの人物がどの相原氏に該当するのか不明です。
なお、この藍原氏は、千葉氏の祖とも言われ、後世の千葉氏に血筋が残ったようです。
また、この相原氏が日本における相原姓の祖とされています。
小山氏
小山城は町田市小山の福生寺北側に居城があったとされます。こちらも戦国時代の城と言うよりは「館」に近かったと推測します。小山城はどうやら戦国期まで使われたような跡も残っていたとされます。
今の矢懸は矢の稽古をして、まちば(的場)はその的を置いた場所との伝承があります。
当時境川流域の集落は、川を挟んで1つの村で呼ばれ、現在のように県境として分かれてはいません。小山氏については良くわからないことがある為、別の章にて解説致します。
矢部氏(野辺氏)
→ 矢部氏館跡
田名氏
源平合戦に出陣した横山時広の次男・横山広季が田名二郎兵衛を名乗り、棚(田名)に定住したと考えられます。
この棚も土地の境界を示す言葉です。
田名氏の居館跡は水郷田名ではなく、河岸段丘を上がった田名堀之内にあったようです。相模川の氾濫を予測すれば当然のことですが、普段は郎党が相模川で鮎でも捕って食べていたのだろうと容易に推測できます。
田名二郎兵衛は和田合戦で戦死した模様。子孫と思われる田名太郎も討死したと考えてよいかも知れません。
→ 田名氏館跡
相模川を挟んだ対岸の愛川町側の山は小沢城(小沢古城)と呼ばれ、横山党の小沢氏が入った模様です。小沢城については番外編にてご紹介しています。
→ 小沢城跡
小倉氏
城山町小倉に勢力を持っていたと考えられますが、それを示すような文献は残されていないようです。
小倉二郎経孝の館があったとされる場所は、現在の八幡神社より西側とれ、地元では堀ノ内、馬場、立などの伝承の地が残されています。
しかし、現在は相模原ICも付近にできたことで、道路の拡張などもあり、詳細な場所は不明です。
小倉経考(小倉次郎)が祖とされますが、それを示す証拠もなく憶測の域になってしまっています。今後県や市により調査が行われることを期待したいです。
下記地図のポイント地点その八幡神社の場所です。
吉野氏
詳しい事はわかりませんが、現在の相模原市の藤野(JR中央線の藤野駅)の東側に当たる「吉野」に本拠を構えたとも考えられます。
横山党の一員だった地頭(相模原以外も含む)
横山、椚田、猪股、海老名、藍原(相原、粟飯原)、平子、山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、野部(矢部)、小倉(こくら)、田名、由木、室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、古市、田屋、八国府、山口、愛甲、菅生、小子、平山、石川、古沢、小野、古庄、中村、大貫、田屋、小沢、小俣、多岐(田儀)、野沢、小補摩、吉野、小野、 海老名、本間、河原田(石田)、荻野など
中村氏、山崎氏、本間氏など
中村氏に関しては、昔、上鶴間の辺りは中村と呼ばれていましたので、上鶴間付近が勢力だったのかも知れません。(中村と言う姓は全国に多く、違う可能性も強いです。)
ただし、中村氏は鎌倉時代のあとの1338年頃である南北朝時代に南朝に味方して破れ、現在の東京都桧原村の数馬に土着したと言う記録があり、当時、中村数馬(小野氏経)と言う槙山党系の人物の名が見られます。
山崎氏は、矢部氏の子孫で町田市山崎が本拠地だった可能性が高いです。
古郡氏は、現在の上野原町を本拠としました。
相模原周辺の地頭、柚木氏(由木氏)、長井氏、小山田氏については、番外編として多摩・町田周辺の地頭にてご紹介しています。
本間氏は海老名氏の庶家で、相模国愛甲郡依知郷本間に由来するとされ、鎌倉時代に佐渡国守護代として本間能久が雑太城を本拠とし、戦国時代まで佐渡を支配した。
猪股氏の流れで新田荘横瀬郷を本領とした横瀬氏(由良氏・新田氏)は、上野国で戦国大名になっている。ただし、徳川政権下では常陸国牛久に5400石。
※上記の家系図はクリックすると拡大表示されます。
小山氏=小倉氏 自説
横山党に属している各支族のほとんどはその出や知行地がわかっていますが、前述致しましたとおり「小倉氏」だけは、その出や実際にどこを知行したのか古文書にも記載がなく、よくわかりません。
「小倉」と称された為、相模川にかかる小倉橋の小倉村辺りを治めた可能性が高いですが、小山経隆(小山次郎)と同一人物と思われる小倉経考(小倉次郎)がおり、実際小山経隆の息子に小倉姓を名乗る者がいることから、小生は下記のような推測をしました。
恐らくは、小山経隆は最初「小山」を知行したと考えました。その後、長男の小山有隆が成人すると小山の地を譲り、小山有隆は小倉の地に入り小倉経考と改名したと言う自説です。
そう考えると、自然に結びつくのも不思議です。
相模原に関連しない、町田・多摩などの横山党に関しては「武蔵七党の最大勢力 横山党」にて、詳しく解説しております。
当時の城の防御について
よく知られる「お城」と言うイメージは、戦国時代末期に発展した防御目的の巨大な建物で、神奈川県では現在史跡になっている小田原城がそのイメージにぴったりです。
しかしながら、横山党が相模原にいた鎌倉時代前後には、野戦が主流で、敵が来ても野戦するのが武士だと言う概念が強く、小田原城のような強固な城と言う防衛戦略は戦国時代になってからできたものです。その為、城と言っても生活する場所「館」と言った方が無難な建物を拠点としていました。現代で言うと「塀」で囲まれていて「門」から出入りするお寺のような感じでしょうか。
その「塀」も予算があれば「板」で作りましたが、土を盛って作られた「土塁」なら安く簡単に作れました。より防御を強固にしたものには、多少丘の上のような高地に館を築いたり、平地でも「空堀」を設けたりしたと推測されます。
戦国中期に活躍した武田信玄も本拠地には城を持たず、比較的防御の弱い「館」を拠点としていました。斉藤道三が1530年以降、稲葉山(岐阜城)の城を天守閣のあるような巨大な構造物になり、それ以降、江戸初期までに小田原城ような大きな城が盛んに作られることになります。
和田合戦
横山党が滅ぶ原因となった和田合戦は、1213年5月2日に鎌倉幕府有力御家人・三浦氏の一族・和田氏が横山党と結び、執権北条義時を打倒するために起した反乱です。
和田合戦については話が長くなりますので、別の「和田合戦」にてご紹介致しております。
相模原市横山の地名にまつわる「照手姫伝説」
照手姫は横山氏の姫君と言うことで、相模原市横山の地名の由来にもなっています。
別のページ「照手姫伝説」にてご紹介致しております。
淵辺氏
淵野辺の地名にもなっている淵辺氏が登場するのは、横山党が滅んでから120年あとの鎌倉時代後期~室町時代初期です。
淵辺氏にまつわる話は長い為、別のページ「淵辺氏と旗本・岡野氏」にてご紹介致しております。
(参考) 源義経の部屋HP、ウイキペディア、千葉氏の一族HP