日本の地名と言うものは、昔から呼ばれていたケースだけでなく、豪族や人物の姓名が地名になるケースなど様々です。相模原市に町名として今でも残っている地名にも、歴史ある地名があります。
横山、小山、矢部などの地名の由来を調べていくと下記のようなことがわかります。
平安時代から鎌倉時代前期
横山党は、現在の八王子を中心地として構成された「武士団」で、鎌倉時代の直前に、八王子から相模原に進出したと考えられています。
横山党の詳細は別コンテンツ「武蔵七党の最大勢力 横山党にて、詳しく解説しておりますので、この記事内では省略させて頂きます。
1113年3月4日、横山隆兼(山口隆兼)の頃とされていますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫を殺害した事により、朝廷より討伐の宣旨が、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に出され、秩父重綱(秩父権守重綱)、三浦為次(三浦平太為次)、鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)ら中央政府軍より、槙山党は討伐を受ける。
しかし、横山党は3年間も抵抗。そして、横山隆兼は源為義の被官でもあり、その保護の下に危機を脱し、愛甲氏は横山党に降伏。横山季隆が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗った。原因は横山庄(舟木田荘)をめぐる主権争いとされています。
横山隆兼はさらに相模の海老名・波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。
また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能・小山田有重を産む。末娘は鎌倉党の梶原景時の母。さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と、高座の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、槙山党一族は勢力の拡大を図りました
そして、横山一族はどんどん相模国にも進出し、その土地の名前に姓名を変えた=同じ横山氏ではわかりにくいので、田名に行った横山氏は田名さんと読ぶようになったと考えられ、鎌倉時代に良く見られる光景です。本家の横山氏を中心に結束した武士団を「横山党」と呼んでいます。
また、日本における「横山」姓の始まりでもあり、現在の相模原市内の地名にもなっている矢部氏、相原氏、田名氏は横山党から排出されています。
相模原南部においては、1161年頃には渋谷重国が支配を広げていたと考えられます。
1184年、源平合戦で有名な一の谷の合戦、鵯越(ひよどりごえ)の合戦では、横山氏などが活躍したと「平家物語」にも記述があります。多摩丘陵は馬を飼育するのに適した土地で、多摩を支配していた横山氏は古くから馬術にすぐれていたからでしょう。
この頃の横山党など武蔵国の御家人7党を総じて「武蔵七党」と称し、横山党は武蔵七党で最大の勢力となっていました。
1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広はそれまでの軍功により横山庄の所領を安堵されます。
その横山党も鎌倉時代の和田合戦(1213年)で多くが討死し、横山党は領地没収となり大幅に衰退した為、資料などはあまり残されておらず、不明な点が多いのも事実ですが、和田合戦なくして横山党は語れませんので、文末にて和田合戦について出来る限り詳細を記述することにします。
なお、和田合戦で一族31名が戦死したものの、少人数ながら、横山党一族は生き延び、戦国時代には加賀・前田利家と前田利長の家臣として名が見られ、横山氏は30000石として前田藩の家老を勤めている。
※おことわり※ 現在は主に境川を境として町田市と相模原市と明確に行政区分されておりますが、明治以前の相原村、小山村、矢部村などは境川で分かれることなく1つの村落とされていた為、下記では相模原として取り扱いさせて頂いております。ちなみに、町田市など多摩地域は1893年(明治26年)まで神奈川県に属していました。
横山党の本拠地
相模原市に横山と言う地名がありますが、鎌倉時代の相模原は林間の地で、耕地などはなく生活の場としては適していない土地だったと考えられることから、横山氏またはその一族が、相模原の横山に住んでいたとは考えにくく、当然ながら居館跡などは発見されていません。
地名に使う横山と言う意味は、もともと、長く連なる丘陵の斜面に対しての呼び名であることから、相模原の横山も、そのような地名になったものと考えられます。
小栗判官物語の照手姫にまつわる伝説が上溝と古山にもあり、その物語に登場する横山と言う名の盗賊の名前から、上溝近くに横山と地名がついたとも、または横山と言う人物が登場したとも言えます。
詳しくは照手姫のページにて詳しく記述させて頂きます。
では、実在した横山党の本拠地はどこだったのかと申しますと、横山党の全盛期(鎌倉初期)は、八王子の市街地である横山町に館を構えたと考えられています。
しかし、横山党の先祖になる小野諸興が「小野牧」の別当(管理者)として、820年、中央政府より赴任した地になる「小野牧」は、小生の考えでは、相模原市城山町の小野地区だと推測致しております。
小野神社がある地こそ、小野氏が最初に赴任した場所だと言う説がありますが、小野神社は府中市、多摩市、町田市と何箇所もあります。
なぜ、府中や多摩市・町田に小野神社があるかと考えますと、別当から荘園領主へと脱却した横山党(小野氏)が、のちに勢力拡大(近隣荘園の掌握)をしたからと容易に想像できます。
もし、別当として赴任した最初の地であれば、あくまでも中央政府の役人として赴いたので、自分の神社を建てる必要性が全く無いですし、仮に神社を建てて独自性を出すと、中央政府への謀反とも捉えかねません。
自家の守り神とも言える神社を建てると言う事は、まぎれもなく、その地に「権力」を示す必要性があったと言う事です。
神社を建てたと言う事はすなわち、その地を征服した自分の権威を示し、農民などを掌握・管理しようとしたと言う証拠でもあり、征服した箇所が何箇所もあるので、小野神社が何箇所もあると言えます。
また、多摩川沿いは平地ですので、馬の育成には余り適していないことから、荘園がある地を征服したと考えられ、荘園管理人から、独立した武士団へ変わり、やがて周囲を征服し、領地を拡大して行ったことが伺えます。
町田の小野神社は972年頃創建、府中市の小野神社は884年創建とも。多摩市の小野神社は紀元前532年と古過ぎるし、現在の多摩市一ノ宮の地は平地であり、地形的に「牧」に適しているとは考えにくいです。
このように、小野氏一族(横山党)が勢力を拡大した際に、威信を示すため、新たに征服した土地に小野神社を築いたのでしょう。武力を持って征服したこともあれば、政略結婚などで領主が変わった地もあった事でしょう。
横山党が相模の愛甲庄を得た際にも、小野神社を建立しています。
また、小野氏は実際には939年、八王子の横山に八幡八雲神社を造り、小野から横山氏に名を改めたのです。
八幡神社と言うのは、中央ヤマト政権関連が征服した地に、神社を建てて「八幡」として祀ったことから、全国各地に八幡神社はあります。
相模原市城山町の小野地区は、武蔵と相模の国境となる境川の源流域で清流があり、まず馬が飲む「水」の確保に困りません。そして、西側の奥と、北・南の両横を小高い山に囲まれ、馬の鍛錬にも最適です。そして、東側だけに「柵」を張れば、天然の山と柵で広大な牧場を作り上げられます。その為、地形的にも馬を育てる大規模の「牧場」には最適な地です。
推測すると、のちに「小松城」と呼ばれた場所こそが、最初に小野牧の別当として赴任した小野氏が築いた館跡だったとも充分考えられます。
その後、牧を管理した小野氏は時代の流れで、荘園の領主となり、勢力を拡大して行きました。
そして、八王子の横山庄も支配下にしたことから横山氏を名乗り、世間からは「横山党」と呼ばれるようになったのですが、本拠地はなかなか捨てないものです。
本家は、鎌倉時代、小野地区の下流域にあたる現在の相原に居住し、藍原氏(粟飯原氏、相原氏)を名乗ってもいます
平安時代初期の相模原には、当麻、中村(上鶴間)、田ノ上(相原)に集落がありました。
その頃、谷原、二本松などにも集落ができ、窯業の跡は相原や町田などで見られます。
平安時代後期から鎌倉時代にかけては、横山党が相模原市域を支配しましたが、上記の説のように、横山党の先祖である小野氏は、相模原市城山町の小野に最初赴任し土着したと言うのが小生の持論です。
その後、現在の相原付近までを中心地として栄え、八王子方面にも進出して、付近では最大となる「横山庄」を支配する「横山党」の武士団となり、更に一族などが、古くからある付近の村(地区)に枝分かれして定住し、一族で支配域を増やして行ったのでしょう。
相模原の歴史カテゴリ
横山党館の解説【横山党の本拠地】 日本の地名と言うものは、昔から呼ばれていたケースだけでなく、豪族や人物の姓名が地名になるケースなど様々です。相模原市に町名として今でも残っている地名にも、歴史ある地名があります。
横山、小山、矢部などの地名の由来を調べていくと下記のようなことがわかります。
平安時代から鎌倉時代前期
横山党は、現在の八王子を中心地として構成された「武士団」で、鎌倉時代の直前に、八王子から相模原に進出したと考えられています。
横山党の詳細は別コンテンツ「武蔵七党の最大勢力 横山党」にて、詳しく解説しておりますので、この記事内では省略させて頂きます。
1113年3月4日、横山隆兼(山口隆兼)の頃とされていますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫を殺害した事により、朝廷より討伐の宣旨が、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に出され、秩父重綱(秩父権守重綱)、三浦為次(三浦平太為次)、鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)ら中央政府軍より、槙山党は討伐を受ける。
しかし、横山党は3年間も抵抗。そして、横山隆兼は源為義の被官でもあり、その保護の下に危機を脱し、愛甲氏は横山党に降伏。横山季隆が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗った。原因は横山庄(舟木田荘)をめぐる主権争いとされています。
横山隆兼はさらに相模の海老名・波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。
また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能・小山田有重を産む。末娘は鎌倉党の梶原景時の母。さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と、高座の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、槙山党一族は勢力の拡大を図りました
そして、横山一族はどんどん相模国にも進出し、その土地の名前に姓名を変えた=同じ横山氏ではわかりにくいので、田名に行った横山氏は田名さんと読ぶようになったと考えられ、鎌倉時代に良く見られる光景です。本家の横山氏を中心に結束した武士団を「横山党」と呼んでいます。
また、日本における「横山」姓の始まりでもあり、現在の相模原市内の地名にもなっている矢部氏、相原氏、田名氏は横山党から排出されています。
相模原南部においては、1161年頃には渋谷重国が支配を広げていたと考えられます。
1184年、源平合戦で有名な一の谷の合戦、鵯越(ひよどりごえ)の合戦では、横山氏などが活躍したと「平家物語」にも記述があります。多摩丘陵は馬を飼育するのに適した土地で、多摩を支配していた横山氏は古くから馬術にすぐれていたからでしょう。
この頃の横山党など武蔵国の御家人7党を総じて「武蔵七党」と称し、横山党は武蔵七党で最大の勢力となっていました。
1192年、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、横山党の横山時広はそれまでの軍功により横山庄の所領を安堵されます。
その横山党も鎌倉時代の和田合戦(1213年)で多くが討死し、横山党は領地没収となり大幅に衰退した為、資料などはあまり残されておらず、不明な点が多いのも事実ですが、和田合戦なくして横山党は語れませんので、文末にて和田合戦について出来る限り詳細を記述することにします。
なお、和田合戦で一族31名が戦死したものの、少人数ながら、横山党一族は生き延び、戦国時代には加賀・前田利家と前田利長の家臣として名が見られ、横山氏は30000石として前田藩の家老を勤めている。
※おことわり※ 現在は主に境川を境として町田市と相模原市と明確に行政区分されておりますが、明治以前の相原村、小山村、矢部村などは境川で分かれることなく1つの村落とされていた為、下記では相模原として取り扱いさせて頂いております。ちなみに、町田市など多摩地域は1893年(明治26年)まで神奈川県に属していました。
横山党の本拠地
相模原市に横山と言う地名がありますが、鎌倉時代の相模原は林間の地で、耕地などはなく生活の場としては適していない土地だったと考えられることから、横山氏またはその一族が、相模原の横山に住んでいたとは考えにくく、当然ながら居館跡などは発見されていません。
地名に使う横山と言う意味は、もともと、長く連なる丘陵の斜面に対しての呼び名であることから、相模原の横山も、そのような地名になったものと考えられます。
小栗判官物語の照手姫にまつわる伝説が上溝と古山にもあり、その物語に登場する横山と言う名の盗賊の名前から、上溝近くに横山と地名がついたとも、または横山と言う人物が登場したとも言えます。
詳しくは照手姫のページにて詳しく記述させて頂きます。
では、実在した横山党の本拠地はどこだったのかと申しますと、横山党の全盛期(鎌倉初期)は、八王子の市街地である横山町に館を構えたと考えられています。
しかし、横山党の先祖になる小野諸興が「小野牧」の別当(管理者)として、820年、中央政府より赴任した地になる「小野牧」は、小生の考えでは、相模原市城山町の小野地区だと推測致しております。
小野神社がある地こそ、小野氏が最初に赴任した場所だと言う説がありますが、小野神社は府中市、多摩市、町田市と何箇所もあります。
なぜ、府中や多摩市・町田に小野神社があるかと考えますと、別当から荘園領主へと脱却した横山党(小野氏)が、のちに勢力拡大(近隣荘園の掌握)をしたからと容易に想像できます。
もし、別当として赴任した最初の地であれば、あくまでも中央政府の役人として赴いたので、自分の神社を建てる必要性が全く無いですし、仮に神社を建てて独自性を出すと、中央政府への謀反とも捉えかねません。
自家の守り神とも言える神社を建てると言う事は、まぎれもなく、その地に「権力」を示す必要性があったと言う事です。
神社を建てたと言う事はすなわち、その地を征服した自分の権威を示し、農民などを掌握・管理しようとしたと言う証拠でもあり、征服した箇所が何箇所もあるので、小野神社が何箇所もあると言えます。
また、多摩川沿いは平地ですので、馬の育成には余り適していないことから、荘園がある地を征服したと考えられ、荘園管理人から、独立した武士団へ変わり、やがて周囲を征服し、領地を拡大して行ったことが伺えます。
町田の小野神社は972年頃創建、府中市の小野神社は884年創建とも。多摩市の小野神社は紀元前532年と古過ぎるし、現在の多摩市一ノ宮の地は平地であり、地形的に「牧」に適しているとは考えにくいです。
このように、小野氏一族(横山党)が勢力を拡大した際に、威信を示すため、新たに征服した土地に小野神社を築いたのでしょう。武力を持って征服したこともあれば、政略結婚などで領主が変わった地もあった事でしょう。
横山党が相模の愛甲庄を得た際にも、小野神社を建立しています。
また、小野氏は実際には939年、八王子の横山に八幡八雲神社を造り、小野から横山氏に名を改めたのです。
八幡神社と言うのは、中央ヤマト政権関連が征服した地に、神社を建てて「八幡」として祀ったことから、全国各地に八幡神社はあります。
相模原市城山町の小野地区は、武蔵と相模の国境となる境川の源流域で清流があり、まず馬が飲む「水」の確保に困りません。そして、西側の奥と、北・南の両横を小高い山に囲まれ、馬の鍛錬にも最適です。そして、東側だけに「柵」を張れば、天然の山と柵で広大な牧場を作り上げられます。その為、地形的にも馬を育てる大規模の「牧場」には最適な地です。
推測すると、のちに「小松城」と呼ばれた場所こそが、最初に小野牧の別当として赴任した小野氏が築いた館跡だったとも充分考えられます。
その後、牧を管理した小野氏は時代の流れで、荘園の領主となり、勢力を拡大して行きました。
そして、八王子の横山庄も支配下にしたことから横山氏を名乗り、世間からは「横山党」と呼ばれるようになったのですが、本拠地はなかなか捨てないものです。
本家は、鎌倉時代、小野地区の下流域にあたる現在の相原に居住し、藍原氏(粟飯原氏、相原氏)を名乗ってもいます
平安時代初期の相模原には、当麻、中村(上鶴間)、田ノ上(相原)に集落がありました。
その頃、谷原、二本松などにも集落ができ、窯業の跡は相原や町田などで見られます。
平安時代後期から鎌倉時代にかけては、横山党が相模原市域を支配しましたが、上記の説のように、横山党の先祖である小野氏は、相模原市城山町の小野に最初赴任し土着したと言うのが小生の持論です。
その後、現在の相原付近までを中心地として栄え、八王子方面にも進出して、付近では最大となる「横山庄」を支配する「横山党」の武士団となり、更に一族などが、古くからある付近の村(地区)に枝分かれして定住し、一族で支配域を増やして行ったのでしょう。