津久井城と北条氏 【相模原の歴史】

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はじめに

相模原市の津久井地区は、相模国と甲斐国の接点として、戦略上重要な土地の為、戦国時代には何万もの大軍がしのぎを削った。
そんな相模原の津久井にまつわる話をまとめてみた。

津久井城(築井城)
 
津久井湖畔の神奈川県立公園「津久井湖城山公園」には「城山」と呼ばれる山があり、標高375mの山頂付近に津久井城があった。
別名:宝ヶ峰、筑井城、典型的な根小屋式山城としても有名なことから根小屋城とも呼ぶ。
相模原の上大島や城山町からも見える山である。


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津久井湖がなかった昔の相模川から津久井城を望む姿を思うと、かなりの要害であったことが想像できる。
西峰には本城曲輪、太鼓曲輪、飯縄神社のある東峰には飯縄曲輪を中心に、各尾根に小曲輪が階段状に配置されていた。
これらの曲輪には土塁や一部石積みの痕跡も残っている。
また山頂尾根には敵の動きを防ぐため、3ヶ所に大堀切があり、山腹の沢部分を掘削、拡張した長大な竪堀も掘られていた。
山城で最重要な要素は「水」である。水がなければ籠城できず、長期間包囲されると負けてしまう。
城山を見ると、一見山頂付近で水の確保が出来るのかと思われるが、飯縄神社の東下に「宝ヶ池」と呼ばれる溜池があり、今でも水を湛えている。
また井戸跡も山頂付近に確認できており、更に山腹でも井戸や湧水が複数あったようで、山城の第1条件である「水」には困らなかった模様だ。

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また、山城の場合山頂付近に居住スペースを設けることが難しいため、中腹や麓に住居などを設ける。
このことを「根小屋式」と呼び、小田原北条氏は築城技術にもたけていた為、この津久井城がその始まりとも考えられている。
津久井周辺の細かい地図を見ながらだとわかりやすいと思うが、津久井城にも根小屋があり、根本・城坂、小網、荒久、馬込地区一帯が武者の住まいだったと推定され、その各地でも大小の曲輪が確認できる。
金原地区にある首塚は富士塚とも呼ばれるが、小田原の役で落城した津久井城の城兵の首を埋めた場所だと伝わっている。
特に城坂地区にはお屋敷跡、馬場、左近馬屋などの地名が残っており、津久井城の根小屋の中心と考えられている。また、お屋敷の発掘調査では、建物跡や煙硝蔵跡、深さ3mにも及ぶ空掘、土塁跡などが見つかっており、城主の館と考えられている。
このように小田原北条氏と甲斐・武田氏の争いにより、北条側の防衛拠点として津久井城が改造されたことがわかる。

津久井城案内図

津久井氏

津久井城は、鎌倉時代の名門・三浦一族で衣笠城城主・三浦義明の弟・三浦義行(津久井義行、築井義行、津久井次郎義行、津久井二郎)の子である、築井太郎二郎義胤(よしたね)(筑井太郎次郎義胤、築井義胤、筑井為行、津久井為行)が津久井に入り、築城した言う説がある。
別名:津久井氏、築井氏、突井氏、津久居氏、筑井氏
津久井氏の津久井は現在の横須賀市津久井から起こったされ、津久井氏が相模原市津久井に移り住んで、この地も津久井と言う土地の名前になったと言う説だ。
ただ、興味深いのは矢部太郎為行=築井太郎二郎義胤と言う説がある。
横須賀にも矢部氏の本拠地があるが、もしかしたら、相模原市矢部の矢部氏にも関係があるのかも知れない。
そう考えると、わざわざ横須賀の津久井氏がこの地にやってきたのもうなずける。
この辺は「矢部氏の足跡」にて自説をご紹介しているので1度ご覧頂きたい。

戦国時代より前の津久井支配

史料的には乏しくよくわかっていない。
1323年10月の鎌倉・円覚寺所蔵文書によると、北条貞時の13年忌に、執権・北条高時が円覚寺内に法堂を新造する際、建築用の木材を奥三保(津久井方面)の屋形山や鳥屋山から切り出し、相模川を使い運搬したようだ。
1394~1428年の頃には、長山忠好(長山修理亮忠好)が津久井を領していたことが伺える。長山ではなく長井氏とも考えられている。
八王子にある真言宗智山派の「真覚寺」には、1411年開基の主が津久井城主の長山修理亮忠好公との古文書が残る。


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江戸時代に塩野適斎や上田孟晋が著した書籍「蛙合戦」の舞台の寺がこの真覚寺で、蛙合戦の真覚寺として有名で訪れる人も多い。
1400年台には相模国まで進出していた扇谷上杉氏の支配下となった模様だ。
1469~87年頃は本間近江が津久井城城主となっている。
本間氏は元々海老名氏(神奈川県海老名市)の一族で、足利義満にも仕え、依知郷(厚木市の相模川沿いを領したようで、勢力を一時津久井方面まで延ばしていたとも考えられる。
しかし、そんな津久井地方も1516年北条早雲が相模国を平定する前には、小田原北条の支配下となっていった。

津久井の地名

津久井という地名が古文書に初めて出るのは1524年内藤大和入道の寄進状である。
当時の津久井周辺は愛甲郡の一部とされ現在の愛川町のほうも含めて「奥三保」と呼ばれていたようで、戦国時代初期にも奥三保と呼ばれていたことが棟札などわかる。
津久井は昔から森林資源が豊富であり、1323年10月に鎌倉時代の執権・北条高時が北条貞時の十三年忌に円覚寺に法堂を新造する際、奥三保の屋形山や鳥屋山から木材を切り出したと言う記録が、円覚寺所蔵文書に見られる。
1476年から起こった「長尾景春の乱」では、長尾景春が大田道灌に敗れて、1478年に奥三保に立て篭もった。
現在の上野原を中心に勢力を延ばしていた武田勢の加藤氏が、この時長尾景春に協力し、大田道灌に奥三保から追い出されたともある。
戦国初期には加藤景忠が剛勇の士で、甲斐と相模の国境である津久井口を守備したと言う記録もある為、津久井氏のあと一時的に加藤氏が津久井を支配していたとも考えられる。
1582年3月に甲斐・武田が滅んだあと、徳川家康に仕えていた元・武田家臣の山本忠玄が、1582年9月、相模国津久井境口~上野原の警備を担当したと言う記録もあり、武田滅亡後、上野原辺りは徳川の所領だったことがわかる。 

古くから上野原や津久井などは相模川を使った水運が既に発達しており、江戸時代の記録では平塚から登ってくるのに、風が強ければ帆を張って、小倉橋付近まで半日とある。
この水運は鉄道や道路が整備される昭和初期まで行われた。
この事から、津久井も古くから栄えており、「津」は船着場で港を指し「久」(ク)は燃料採取に関係あるようで、「井」は集落の意ともされると言う説もある。

現在の津久井城本丸跡に建つ「碑」は「筑井古城碑」と記載されており、昔は筑井と漢字で書いたことが分る。
これは三浦一族の筑井氏(津久井氏)が室町時代に自己の姓を地名として支配権を主張した説をとったものだ。。

もっとも「つくい」と言う地名は縄文時代につけられたと言う見方もできる。
この件は「古代人がつけた古い地名」にて紹介する。

津久井内藤氏

北条早雲が三浦氏を滅ぼし相模国を平定すると、度々関東や津久井に進出していた武田氏に対する最前線防御拠点として、津久井城の拡充が行われたと考えられる。
北条氏綱が扇谷上杉朝興の江戸城攻略を開始すると、上杉の要請に武田が応じて、1524年~1525年には甲斐の武田信虎が奥三保を攻める。
「1524年、国中の勢が猿橋の御陣にて働き、奥三保へ働き矢軍あり」
「1525年、武田信虎と北条氏綱とが合戦、いまだ津久井の城落ちず」
この当時、まだ津久井のあたりを「奥三保」と呼び、そこにあった城が「津久井城」と呼んでいたことが改めてわかる。また、相模原市の馬坂と武田信虎にまつわる古話もある。
この時の津久井城主は北条氏家臣の内藤大和入道であり、1525年武田と北条は和睦した模様だ。
津久井城主内藤氏は北条氏の重臣であり、内藤氏の先祖は平将門を討伐した藤原秀郷とされるが、その出自や系譜に関しては確たるものはない。
しかし、北条氏関連の残された内藤氏関連の文書が24通も現存しており、北条家中では相当の重臣であったことは間違えなく、北条氏家臣のなかで、内藤氏の花押を用いた独自の文書も発給もしている。


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1530年、北条氏縄の軍勢が甲州街道を進軍。武田勢は現在の中央高速談合坂SAかせほど近い矢坪坂で待ち構え、4月23日矢坪坂の戦いとなる。
武田勢である小山田越中守は敗走するなど、1524年~1530年頃、相模と甲斐の国境付近では戦が絶えなかった。
津久井城主内藤氏は1187年頃、京都の治安維持にあたった御家人の一人である内藤四郎の家人内藤権頭親家が津久井にいた内藤氏の先祖と言う説もある。
その内藤権頭親家の子孫が鎌倉幕府滅亡後の南北朝の内乱期を生き抜き、室町時代には鎌倉公方足利持氏に仕え、その後、関東管領上杉氏に仕えるようになったと言う説だ。
北条早雲が相模国を平定すると内藤氏は北条氏に属するようになり、1541年以降には奥三保の守備を任されたとされている。
1559年に北条氏康が作成した「北条氏所領役帳」には、津久井衆として内藤左近将監、1202貫との記述がある。
時代は不明だが津久井城主・内藤康行は津久井衆1402貫の記録もある。
この頃は内藤景定(内藤左近将監景定)が津久井城主であったと考えられ、津久井城に程近い功雲寺には内藤景定(内藤左近将監景定)夫婦の他、家老の馬場佐渡らの墓がある。
馬場佐渡は津久井城の城代家老だった。
1590年の「北条家人数覚書」には「内藤 つくいの城 150騎」とあり、同年の「関東八州諸城覚書」にも「つく井 内藤」とある。

内藤氏は津久井にいただけでなく、現在の愛川町の田代城にも内藤氏がいたことが知られ、相模北部に小田原北条氏に仕える二流の内藤氏がいた模様だ。
津久井城最後の城主とされる内藤綱秀は、田代内藤氏の出である。
それを考えると、もとも内藤氏は愛川町の方を治めていて、三浦氏が滅ぶと津久井も与えられたとも考えられるが、記録がなく詳細は不明だ。
田代城については小沢古城・小沢城・田代城・細野城のコーナーで触れている。
内藤氏は「津久井衆」の筆頭であったが、戦国時代の津久井衆は「半敵地」又は「敵半所務」「敵知行半所務」などと呼ばれるように、津久井衆の半分位は武田氏の重臣・小山田氏に味方する土豪たちであったので、北条と武田の息が複雑に絡んでいたようだ。逆の捕らえ方をすると、土地が安堵されれば、どっちの味方でもよかったのかも知れない。
武田氏滅亡(1582年)以降は小田原北条氏が完全に津久井を掌握していたようだ。

三増峠の戦い

津久井城が関係した北条氏と武田氏の戦が三増峠(愛川町と相模原市の境。
ただし主戦場は愛川町側)で起こる。
三増峠の戦いについては話が長いので別の「三増峠の戦いと武田信玄の相模原行軍」にてご案内している。
実際の三増峠の戦いはこちら

小田原の役・八王子城落城

津久井城も関連した三増峠の戦いから21年後、津久井城は徳川勢の攻撃を受け、落城することになるが、その時、八王子城と密接な状態にあった為、まずは八王子城の話から進める。

武田の攻撃で落城寸前になった経緯がある滝山城は、南からの攻撃に弱点があることが明らかとなり、北条氏康の三男・北条氏照はより強固な防御城をと八王子城を築城。
1584年頃に八王子城に入っている。
標高466mの山を生かし、石垣で固めた山城構築を行ったとされ、八王子城の規模は大きく、城部分だけでも40万坪と関東屈指の山城となった。
北条氏の築城技術が見受けられる。
北条氏照の家臣が使者として1580年に織田信長の築城した安土城を訪れており、安土城と同じような作りがあるようだ。
その為「関東の安土城」とも言われる。
豊臣秀吉が小田原攻めをした際には、まだ未完成な部分があったと思われる。

津久井城

1590年、天下統一を目指す豊臣秀吉は小田原北条攻めを行い、4月6日箱根湯本の早雲寺に本陣を据える。
淀殿だけでなく、参戦した武将の妻子も箱根に呼ぶなど、戦とは思えぬ余裕ぶりである。
小田原城を21万の大軍で包囲するだけでなく、関東の北条諸城も包囲。
4月20日に松井田城が落ち、続いて厩橋城、箕輪城が陥落。
4月27日には江戸城も開城。
5月初旬には河越城、松山城が降伏。5月22日に岩付城、6月14日には鉢形城も落城。
この頃、津久井城も八王子城も包囲されたと考えられ、豊臣側北国軍として出陣していた前田利家、前田利長、上杉景勝、真田昌幸ら15000が八王子城を包囲する。
北条一族でも最強硬派だった城主・北条氏照は、豊臣軍本隊に対応すべく、小田原城に入り不在。
老臣・横田長次(横地吉信、横地監物吉信、横地将監景信)を城代に、中山勘解由家範(中山家範)、狩野一庵、近藤綱秀、大石信濃守、金子家重、平山綱景らが八王子城を守り、付近の農民、職人、女、子供と、とにかく人を城内に入れ、約4000(2000とも?)で守っていたが、逃亡する者も多かったようだ。
豊臣秀吉は城攻めの際、敵が降伏するのを待つ作戦を得意としていたが、時には皆殺しも必要と言ったのを受けて、豊臣に降伏していた元北条氏家臣の大道寺政繁らを先頭に1590年6月23日深夜又は早朝より、豊臣勢は八王子城を攻撃開始。
霧が立ち込めていて、豊臣勢が城に侵入する動きが見えなかったとも言われている。


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城兵だけでなく、女子供も含めて1000人以上(1200人以上とも)を虐殺し、城内の滝は3日3晩、血に染まったと言い伝えられている。
八王子城内金子丸を守っていた金子氏・金子三郎右衛門も討死。
太鼓郭を守備していた平山綱景も戦死。
中島源右衛門も討死。
八条流馬術の達人だった加治家範も自刃。
北条氏照の側室・お豊の方は幼い若君を抱いて八王子城から落ち延びようと試みるが、迫りくる敵兵の前にもはや絶望的となり、お豊の方はしっかりと若君を抱いて、主殿の滝に身を投げたと言われている。
北条氏照の正室・阿豊を前田利家は助けようと城に使いを出したが、阿豊は断り、横地景信が守る中、自害したと言われている。
八王子城代だった横地景信は、檜原城(城主・平山氏重)に落ち豊臣勢に抵抗するものの、7月12日檜原城も落城。
平山氏重は城下千足のかくれ岩で自刃。
横地景信と平山氏久は小河内に落ちた。
その後、横地景信は更に逃亡を図るが、重傷を負っていた横地景信は蛇沢と呼ばれる地で自刃。
深傷の為に動けなくなったようだ。
その地には当時から横地社がある。
小田原城の記録では、若武者一騎、八王子城よりの使者。
落城のさまを報告せり。
その名を常磐小太郎とある。
常磐小太郎は馬術に優れた武士であった常磐対馬と共に八王子城へ詰めていたとされ、最初は常磐対馬が伝令として八王子城から単騎小田原を目指したが討たれ、その子の常磐小太郎が役目を中山家範に申し出たようだ。
翌日には北条方武将の妻子と思われる、ボロボロになった着物を着た女・子供などが、小田原城からすぐ見える城下町に連行されたり、八王子で討死した首も海から小田原城へ届けられたと言われ、その八王子城落城のあり様を実際見ることになった小田原北条勢の士気は低下したと言う。
恐らくは高尾から城山町に出て当麻辺りから相模川を渡たり、捕虜として連れて行かれたのではと想像できる。
ちなみに、徳川家康が江戸に入ってから、八王子城一帯は幕領として立入禁止の禁制地として幕末まで続いた。
なお、八王子城には数々の悲話・伝説が残っている。
また、別ページ「八王子城」にて、八王子城攻めの詳細を記載しているので、ご覧頂きたい。

津久井城落城

津久井城を守る家臣はわずか150騎。
雑兵も含めると約500名程度と推測できる。
対して、徳川勢の本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞らは11000~12000で、完全に津久井城を包囲していた。
6月23日の八王子城落城の際、城山町には「下馬梅」と言う逸話も残っており、その知らせが届いたのか、6月25日に攻撃を受けて開城する。
下馬梅の話は、別の「小松城と煙火台」にてご紹介する。
津久井城の南に広がる金原地区には、前陣馬、奥陣馬、勝どき畑、首塚など、この時の徳川勢布陣に関連すると考えられる地名が残されている。

→ 首塚の話はこちら


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津久井城が攻められている際、津久井城主の内藤景豊(内藤大和守景豊)とする説もあるが、 内藤綱秀(内藤左近将堅綱秀、内藤左近太夫、内藤大和守綱秀)とする説もある。
北条氏家臣に関する古文書では内藤景豊と内藤綱秀とをかなり混同してしまっており、どちらが正しいかわからないが、系図的には内藤綱秀の方が古くから北条氏家臣であることから、津久井を任されたと考えられる為、内藤綱秀の方が有力だ。
先日は、松田憲秀のご子孫の方からも、内藤綱秀説を取られているとご連絡を賜った。
なお、松田憲秀と言えば北条早雲の代から北条家の重臣で、北条家の家老でも筆頭だ。
そして、豊臣秀吉の小田原攻めの際にも小田原城にて大きな役割を果たしている。

内藤氏に関する検証も合わせてご覧頂きたい。

小田原城開城

津久井城が落ちる前日の6月24日には豊臣側から和睦交渉が開始され、同6月24日、韮山城も落城し、北条側で残る城は、小田原城と忍城(成田氏)の2城だけになっていた。
上杉謙信に1ヶ月間包囲されても耐え、また当時最強と言われた武田信玄に包囲されても、篭城作戦で敵を撃退していたことから、豊臣に攻められても大丈夫とこの時も篭城したのだが、小田原北条氏は、領内百姓を大量動員し友軍を合わせて56000の兵力。
豊臣軍の21万にはかなうはずがない。
密かに同盟をと頼りにしていた関東から東北の名だたる諸大名も豊臣秀吉に帰順し、北条は益々窮地に追い込まれていた所6月27日に、延べ4万人を動員して約80日と突貫工事で完成した有名な石垣山の一夜城が突如現れる。
7月に入ると開城する方向になり、交渉の末7月9日に小田原城は開城。
小田原北条氏は滅びる。

なお、津久井衆筆頭の内藤景豊説でも、 内藤綱秀説でも同じく、小田原城落城後は行方不明である。

豊臣秀吉の軍は、織田信長の兵農分離を受け継ぎ、兵力(人数)だけでなく練度・経験においても上杉謙信や武田信玄や小田原北条氏を上回っていた。
北条氏が何ヶ月籠城しようが、小田原城を囲んでいる豊臣秀吉の軍には十分な食料や物資が、石田三成らの活躍で毎日届けられていた。

実は本格的に防御を固めたていた津久井城

津久井城は築城技術に秀でていた北条氏により、何度も改修され、豊臣勢が攻めてきた頃には、最新の防御能力を持つ山城になっていたことが最近の発掘調査などで明らかになりつつある。
山頂(本丸)付近にも兵士が駐屯できる建物跡があるなど、これまで言われてきた「根小屋式山城」の典型例ではなく、山頂にも建物や、物見櫓などを配置した、当時最新の山城であることがわかってきた。
また、豊臣勢が津久井城を攻め寄せた際には、大きな戦闘はなかったとされているが、相応の戦闘があったことも伺えるようになってきた。
今後、更なる研究・調査が楽しみである。

江戸時代の津久井

江戸時代、一国一城の決まりもあり、津久井城は廃城となっていたが、津久井は徳川領として1608年代官に登用された守屋行広の陣屋が根小屋の根本に置かれた。
現在の津久井城山公園の南側、パークセンターがある場所である。
守屋行広は津久井衆の中でも上級武士だったと考えられる。
1631年頃、寸沢嵐(相模湖町)の鼠坂(ねんさか)と、青野原に「関所」が設けられた。
1691年には山川貞清(山川金右衛門貞清)が津久井の幕府領の代官になると、幕府は従来の津久井領を津久井県(つくいがた)と改正。
江戸時代唯一の「県」という行政単位で幕末まで「津久井県」の名で呼ばれた。
ただ、大和朝廷以来「県(あがた)」と言うのは「田舎」と言う意味で、江戸時代になっても「藩」「領」より下、そして「郡」よりも下との解釈だった。
明治になって行政単位となった「県(けん)」は、地方組織と言う意味で県とした為、津久井が始めての県(けん)になったと、あさはかな誤解はしないで欲しい。
幕末には伊豆韮山の江川英龍(江川太郎左衛門英龍)が津久井の代官も兼務している。
この江川英龍は高尾山にも杉の植林を行っている。


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明治に入り津久井郡と改称され、2006年に津久井郡は相模原市と合併した。

守屋行重・守屋行広(守屋左太夫、守屋若狭守行昌?)

守屋氏の先祖・守屋行重は「津久井衆」の一員として津久井内藤氏に仕えた。
小田原衆所領役帳(1559年)にもその名が出てくる。
津久井城落城後、守屋行広は父・守屋行重と共に日連(相模湖町)に移り帰農していたが、藤原姓を称していたことかも津久井衆の井上氏、大野氏共々注目されていたようだ。
その後、どうやら徳川勢に従って、関ヶ原の戦いにも出陣していたようで、その功もあってか守屋行広は1608年から1644年まで37年間2代に渡り、津久井の代官に徳川幕府から任命された。
その守屋氏が代官だった際の陣屋が津久井町根小屋にあり、守屋屋敷とも呼ばれている。
相模湖町日蓮の屋敷は現在の、青蓮寺と相模湖自動車学校の間の畑地らしく、その場所を「ドンドン屋敷」と称し、守屋氏屋敷跡と伝わる。
また、相模湖自動車学校をその跡地とする説もある。
青蓮寺には守屋氏代々の墓が今でもある。
1644年、守屋行広は駿河国に領地替となり、その後津久井に代官はおかれなかった模様で、陣屋は廃止され、その後は名主・島崎氏が代々支配すると言う名主支配になったようである。

県立津久井湖城山公園

現在の城山(津久井城跡)は、山全体が「県立公園」となり、整備されている。
津久井湖側の登山道から山頂までは結構急な斜面だが約40分。
小学生以上なら子供でも登れる山だが、落ち葉が滑りやすく、靴は運動靴など滑らないものが良い。
山頂付近には、今でも水を湛える宝ヶ池や、切堀などの遺構が見られる。
また、煙火台があったとされる場所は展望もよく、冬の晴れた日には横浜のランドマークタワーも見える。
お弁当を広げられるような場所もあるので、是非ハイキングで訪れて欲しい。
功雲寺本堂の裏手には歴代住職の無縫塔群、その中央に内藤景定夫妻のものといわれている宝篋印塔、これを囲んで代官守屋左太夫一族、津久井城代家老馬場佐渡、元家臣で津久井総代名主島崎律直らの墓とされるものが並んでいる。

小原宿本陣 (相模湖町)

相模湖町に「本陣」が現存する。
甲州街道や神奈川県内では唯一だそうだ。
正確には清水家の邸宅を本陣として大名などが宿泊したと言う事になるが、瓦屋根をのせた豪壮な門や入母屋造りの建物、14室の部屋が残されている。
小原宿本陣は国道20号線沿い。

石井家住宅 (藤野町)

国の重要文化財として指定されている石井家住宅。
先祖は津久井衆36騎の1人で、四貫文の禄高を持つ沢井の名主でもあった。
私宅の為、敷地内に入っての見学は事前に申込が必要。

津久井衆として名が見られる武士

このページで名前が出てこない津久井衆は下記の通り。

秩父次郎左衛門 (北条御旗本48番将の1)、大野氏、尾崎掃部助など。

津久井衆は55名とも57名いたと言われている。

※現在、秩父次郎左衛門が津久井衆に組み込まれていた事が、確認できなくなっているため、deleteさせて頂いております。


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参考

埋もれた古城HP、ウイキペディアなど

北条氏康と瑞渓院とは~文武両道な猛将も家中や庶民を大切にした戦国大名
伊豆・狩野城~工藤茂光と最後の城主である狩野道一
勝坂遺跡に関してはこちら
相模原の戦国時代ヒストリア

コメント(21件)

  • […]  → 戦国時代の平山氏が含まれる記事はこちら […]

  • […]  滝山城跡- 関東管領上杉氏の城を北条氏が奪取する。信玄の小田原攻めのときに途中のこの城の攻略を図るが、北条方は守り抜いた。八王子市    滝山城の詳細はこちら  八王子信松院-信玄五女の松姫は織田信忠との政略結婚に破れた後どこにも嫁がず、織田軍の侵攻に際して八王子まで逃げ延びた。のちに出家して尼となり草庵を結んで、これが今の信松院となっている。八王子市  三増峠の戦い—武田信玄が小田原城を攻めあぐねて甲斐に帰還する際に北条氏が三増峠に出兵し退路をふさごうとした。この戦いで初めは北条有利であったが、結局信玄の勝利となった。愛川町    三増峠の戦いの詳細はこちら  津久井城-武田信虎と北条氏綱の頃から攻防があり、三増峠の戦いの際にも武田勢は津久井城を抑えた。相模原市    津久井城の詳細はこちら  小田原城—北条氏の本拠地で、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた。小田原市。    小田原城の詳細はこちら […]

  • […]  津久井城が豊臣秀吉勢に攻撃された話はこちら。 […]

  • 力武 稔 より:

    関東の城は、北条家から徳川家と平和な運営を続けられる傾向にあったためか、大規模且つ戦闘的な城郭は近畿地方に比べると少ないと感じておりました。
    本検証の文章を読むと、たしかに武田との領域的な関係から、津久井城の様な城が相模に存在することは地政学的にも納得のいくところです。
    今度見学に行きたいと思います。

    • 高田哲哉 より:

      力武さま、お忙しい中、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
      ご指摘のとおり、北条家が比較的安定した領国経営を行ったため、特に南関東では取り合いのような激しい合戦は数える程度しかないですよね。
      もし、津久井城にのぼられるようでしたら、駐車場や所要時間などを下記に明記してありますので、ご参考になさって頂けますと幸いです。
      http://senjp.com/post-2535/

      • 力武 稔 より:

        高田様

        お返事が頂けるとは思いませんでしたので感激です。
        有難うございました。

        転送頂いた内容が文字化けしており読めないようです。

        • 高田哲哉 より:

          力武 さま、ご返信誠にありがとうございます。
          また、当サイトを気にして頂き、御礼申しあげます。
          文字化けの件でございますが、HPですかね? お詫び申し上げます。
          エンコードは指定する形で制作しており、当方の再確認では、IE、chrome、safariと問題なく、不明でございます。
          初めて文字化けとのお知らせを頂きましたので、もし、可能でしたら、詳しい状況を教えて頂けますと、大変うれしく存じます。
          以上、コメント返礼の御礼まで。

          • 力武 稔 より:

            [新規コメント] 津久井城と北条氏
            上記題名で、4/9の11時8分に発せられた、相模原情報発信基地へのコメントのページです。
            全てのコメントが文字化けしており、一文字も確認することが不可能です。という状況です。

          • 高田哲哉 より:

            力武さま、ありがとうございます。ホームページではなく、コメント投稿があった際に、システムから自動送信される、メールですかね?
            調査、確認してみます。
            →確認してみましたら、コメント発生時のシステムからの自動メールは、アメリカのワードプレス社サーバーから送信されるようでして、自動的にHTML形式になるようです。
            当方のメーラーでは問題なく表示されるのですが、お使いになられているメールソフトによってはHTML表示に対応していないと文字化け状態になるかも知れません。
            この自動送信機能は当方で制御できるものではないため、自動メールの文字化けに関しては、どうが勘弁願いたく存じます。

  • 津久井修司 より:

    このたび、このサイトに入会させて頂きました。
    津久井修司と申します。
    よろしくお願い致します。

    自分の名前から、津久井城址には関心があり、歴史について少しずつ調べています。
    6月中旬、家内とともに津久井城山を登頂しました。これで二度目ですが、首塚がわかりませんでした。
    次回、確認してみます。
    よろしくお願いいたします。

    • 高田哲哉 より:

      津久井さま、この度は、研究会へのご加入も賜りまして、誠にありがとうございます。
      津久井の首塚(富士塚)は下記のページにてご紹介致しております。
      https://sagami.in/reki/kubizuka
      地図も載せてありますので、参考になるとは思いますが、駐車場が近くにはないので、その点だけは難点です。
      ご参考になれば幸いです。

  • 守屋馨 より:

    昨年9月に父が他界して古い位牌を見たら守屋若狭守の位牌がありましたが、このサイトの津久井と関係しているのでしようか?小さい頃、刀や十手があつたので少し調べてみますが、文章にある守屋若狭守( )? が解明されるかも知れませんね。勉強になります。ありがとうございました。

    • 高田哲哉 より:

      守屋馨さま、この度はコメントを賜りまして幸いです。
      戦国時代の小田原北条家の家臣として、津久井衆の中に「守屋若狭守」と言う武将の名が見られますので、その人物である可能性も充分あるのではないかと存じます。
      ただ、その津久井衆の中に、守屋若狭守と名の付く武将は、私の知る限りで3名おりまして、その理由など、私には不明ですが、もしかしたら、その守屋若狭守は3~4箇所くらい知行していたとも考えられます。
      ちなみに、守屋姓の武将だけで津久井衆には7名はいます。
      もちろん、詳しく調べて見ないとわからないと存じますが、相模原市の文化財保護課に一度ご位牌を見に来て頂いても良いのでは?と感じます。
      相模原には井上家も多いですが、守屋家は江戸時代には津久井の代官的な役割を担っており、相模原にもたくさん守屋様がおられますね。

      • 守屋馨 より:

        早速のご連絡ありがとうございます。週末、実家に帰りもう一度位牌を確認致します。父の一周忌は近くの円通寺で行いましたが、その住職に話しを聞くと、その寺は鎌倉の建長寺から来た僧侶が建てた寺だそうで、その二代目が実家の右側に寺を建て、左側の熊野神社では守屋を祀ってたそうです。既に場所は分かると思いますが、一度、実家にあった巻物が役場に預けてあるようなのでその確認と、日連の寺に行ってみたいと思います。時間が掛かりそうですが、また結果をお知らせします。

        • 高田哲哉 より:

          お忙しい中、経過のご報告などありがとうございます。
          津久井衆は不明な点も多い為、円通寺がある佐野川の守屋様ご先祖様の件だけでも新しい事がわかって参りますと、小生も大変うれしく存じます。
          結果などは「寄稿」と言う形でのサイト掲載も可能でございますので、もし差し支えなければご検討賜りますと幸いです。
          以上、ありがとうございました。

  • 津久井龍也 より:

    本家で津久井に関する資料を漁っていたところ、家系図のような、資料が見つかりました。
    貴殿に見ていただくことは可能でしょうか

    • yasu より:

      津久井龍也さま、お問合せありがとうございます。
      貴重な資料のようでしたら、相模原市などしかるべきところにご相談なさった方が、良いのではと存じます。

      • 津久井 より:

        相模原市の市役所に相談ですね。ありがとうございました

  • 清和源氏 より:

    拝見させいただきました。
    有益な内容ありがとうございます
    文中に

    藤原姓を称していたことかも津久井衆の井上氏、大野氏共々注目されていたようだ

    とありますが井上氏、大野氏はなぜ注目されていたのですか?

    • yasu より:

      ご覧頂きまして、ありがとうございます。
      藤原姓を称し注目されている件でございますが、藤原氏の租は、藤原鎌足(中臣鎌足)で、多くの公家・武家を輩出しています。
      例えば、上杉謙信・伊達政宗・山内一豊なども藤原氏と称してしますし、津久井城の内藤氏も藤原氏と推測されます。
      藤原氏と言う事は、現代で言えば、皇族に近い由緒ある家柄と表現すると、わかりやすいでしょうか?
      そのため、家柄が良く、注目されたことになるかと存じます。
      極端な話を申し上げれば、姓名が多い、佐藤さんも、藤原氏関連となりますが・・。(^-^)

  • 山本真広 より:

    津久井の歴史を調べている者です。詳しい解説まことに勉強になりました。

    青根地区の伏馬田城(尾崎城)について調べております。
    勝山記によると1536年に甲斐武田の郡内を支配した小山田氏の武士、小林尾張守刑部左衛門が青根を襲撃し足弱を100人程拉致したと記録があるそうですが、伏馬田城はこの際どうなったのか。落城してしまったのか、あるいはその後も存続していたのか、おわかりになりますでしょうか。

    また青根地区の伝承で、三増峠の戦いの後に撤退する武田の軍勢と日向薬師の山伏集団(先達を権大僧都勝快法印とする?)が戦闘となり、山伏一行が全滅したとされる言い伝えがあるのですが、その際の伏馬田城の動きはどのようなものであったのか想像でるような文献はございますでしょうか、

    先行文献が見当たらずなにかご示唆がありましたらお願いいたします。

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