神の川に身を投じた折花姫・相模原のお姫様伝説

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戦国の世にさる国から追われ、丹沢山塊の麓を流れる神の川に身を投じた折花姫

 武田家臣としては戦陣での使番であるムカデ衆(大百足差物衆)の武将であった小山田行村(小山田八左衛門尉行村、小山田八左衛門、小山田彦之丞)は、武田氏滅亡の折、小山田信茂の留守中、岩殿城代を勤めたとされ、小山田信茂処刑と聞き、一族にも追っ手がかかることになり、身内の者と大月から逃れて奥津久井に入った。

 そして、道志川を渡り、神の川沿いの山道を丹沢奥深く入り、山深い長者舎辺りまで逃げて、滞在したと言う。

 しかし、長者舎まで追っ手が迫り、小山田行村は娘の折花姫だけでも逃がそうと、姫の打掛をかぶって敵を引き寄せ、翁と姥をつけて姫の3人を逃がした。
 この爺と姥は、小山田氏の者ではなく、姫の世話をしていた人物のようだ。
 なお、長者舎で小山田行村は矢弾にあたって息を引きとった。

 折花姫は手向けの念仏を唱えつつ、翁と共に慣れない丹沢山中の山道を登って行ったが、追っ手は、更に3人のあとを追った。
 姥は追っ手をだまし、時間稼ぎをするが、やがて渓谷を登る翁と姫を見つけて矢弾を射ち、そのひとつは頼みにしていたの翁の背中に当たる。
 もうこれまでと、翁は折花姫を一人逃がし、折花姫の後姿に合掌ののち、迫る敵と戦い、壮烈な死を遂げる。

 そして、ついに、折花姫も追っ手に包囲され、自ら懐剣で喉を貫いて無念の最期を遂げたと言うのが、折花姫伝説である。
 
 なお、この折花姫の話には、3~4通りあるが、上記の節がもっともらしいと小生は考えている。

 折花宮

 折花宮

 上記は折花宮。
 場所は下記の地図の所。駐車場はないので、ダンプカーも通過するので道路上の安全なところに短時間停めよう。
参考地図へのリンク

 

 エビラ沢の滝

 上記は、エビラ沢の滝。
 落差15mほどあり、その昔、緑の玉を抱いて観音経を唱え、滝に打たれていた修験者によると、その玉の中に御霊が入ったという伝承がある。
 下記は動画。

 

 今でも、この姫の名をとった神の川の周りには、姫の悲しい物語にちなんだ地名が多く見られる。

 ばば宮
 ばば宮(姥の死んだ所)
 音久和の集落がある道路沿い(左側)にあれます。
 逃れる際、老齢からかここで一行と別れたのでしょうか?

 じじ宮

 じじ宮(翁の死んだ所)
 神之川キャンプ場の入口付近、道路左側にあります。

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 姫次(姫を従者に渡した所)や可愛峰(かあいおね)と言う、翁が姫を逃がした所とされる地名が残る。

 また、信憑性は薄いが、鐘撞山(写真)は、織田・徳川の追っ手から折花姫を守る為に、見張りを置き、鐘を付く為に、鐘を置いたと言う言い伝えもある。

 また、小山田八左衛門行村の墓と伝わる石碑が、津久井青野原の伏馬田から道志川を渡った地にある。
 墓標には、武田氏滅亡と同じ年の1582年、月日は4月9日と記載がある。武田勝頼が自刃したのが3月11日。小山田信茂が織田信長勢により、首を斬られたのが3月24日なので、その後、津久井方面で逃亡生活していたところ、発見されたと容易に考えられる。(実際にどこで死亡したかは別として・・)

 姫の死んだ地にには地元の人々が「折花宮」を祀り供養した。
 現在、青根から犬越路峠に行く山道沿い、折花橋の近くには折花神社と言う小さな神社がある。

 神ノ川には長者舎と呼ばれる地名が現在でもあるが、別の伝説では、大長者の老夫婦と美しい折花姫と呼ばれる娘が住み着いていて、大室山の東にある鐘撞山(839m)の頂上に鐘守を置いて見張りをさせていた。
 ある時、急襲してきた群衆に老夫婦と折花姫は共に逃れようとしたが、老夫婦は殺害され、姫は自害した。残された長者舎の屋敷跡からは「さる木の下に小判千枚」という書き物が発見されたと言う。
 鐘撞山には金のカメ7個を埋められたという古文書もある。

 車では行けない丹沢の登山道だが、蛭ヶ岳から北へ下り、原小屋平を過ぎる山中にベンチのある 「姫次(つめつぎ)」(1433m)と言う開けた場所がある。
 折花姫は追っ手に崖下に突き落とされたともいわれており、その「姫突き」が語源となり「姫次」となったと言う説もある。

 別の折花姫伝説では、平家落武者の姫と言う話もあり、姫の一行は小田原から丹沢を越えて、落ち延びてきて、長者舎に何年か住み着いていたが、とうとう追っ手に発見されたと言う伝説もある。

 小山田行村(小山田八左衛門尉行村)は、小山田信茂が甲斐善光寺で織田勢に処刑された際に、同じく処刑されたと言う説もあり、折花姫に同行していたのか、また折花姫じたいが小山田氏の一族なのかは不明である。

 武田氏滅亡の際、上野原を知行していた加藤氏は一族をつれて武蔵国に逃れたが、多摩郡箱根ケ崎で百姓の落武者狩りにあい、加藤丹後守景忠を始め一族・家臣ともども討死した。
 実際、落武者狩りが行われていたのは事実だったようである。

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