丸崎の馬坂(横山坂) 武田信虎の行軍

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神奈川県相模原市の上溝にある亀ケ池八幡宮の東側にある河岸段丘の坂、丸崎から陽光台に登る事が出来る急坂に関する話です。




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丸崎の馬坂 (横山坂)

馬坂は昔より使われていた坂道だが、今のような舗装されていた訳ではなく、狭くて赤土がむき出しの滑りやすい状態だった為、馬が登る事が困難な急坂だったので、いつしか「馬坂」と呼ばれるようになったようだ。
現在のようにほぼ直線の坂になる前は、現在、人が散歩できるような脇道部分(余剰スペース)が道路で、坂の途中で南側に曲がりこみ登っていく経路(カーブ)が昔より使われていたようである。

その馬坂には、戦国時代、甲斐・武田信玄の父になる武田信虎に関する伝説(昔話)が残されている。
1525年(1524年とも)に甲斐の武田信虎が津久井城まで出兵。
小田原城主・北条氏綱を攻撃する為、津久井から橋本方面を通り、18000の武田勢が辰街道を南下した。
その報を聞いた上溝近郷の農兵がやせ馬に鞭打って馬坂を急ぎ登り、現在の渕野辺公園付近にある二本松で武田勢に合流する為にも登った坂と伝わる。

辰街道

 
辰街道(たつみかいどう)は藤沢から相模原を結んだ古い街道で、南北に貫くため辰の名称が付いている。
健在、辰街道の道路がはっきり残っているのは、小田急相模原駅の南側から、座間の小松原に続く区間。
相模原の軍都計画で道路整備がされる前は、もっと北側にも繋がっていたと考えられ、現在の国立相模原病院の敷地内を通り、淵野辺公園方面に続く街道であったと推測できる。
では、武田信虎はいつ、なぜ、辰街道を南下したのでしょう?
歴史的小田原攻めをしたのは1569年武田信玄であり、武田信虎は小田原城を攻撃したと認められません。

武田信虎は、有名な甲斐・武田信玄のお父さんです。

武田勢が小田原城を攻撃するのであれば、津久井から相模川をわざわざ越える必要は退路や防御面からも意味がありません。
相模川を越えなくてはならない理由があった=南関東への出陣であったと考えられます。
小生の説としては下記の通りです。

この頃、武田信虎の武田氏と、北条氏綱の北条氏は、国境となる津久井や上野原で双方争っている状態で、武田信虎と、河越城の上杉朝興も対立しています。
そんな中、1524年1月に北条氏綱が扇谷上杉朝興の家老で江戸城主の太田資高を寝返らせる事に成功し、上杉朝興と北条氏綱は急激に対立します。
1524年4月には、北条氏綱が猿橋まで攻めてきたので、武田信虎が撃退。
そのような状況の中、上杉朝興は山内上杉家の上杉憲房や武田信虎と和睦。
実際、武田信虎は1525年2月に上杉朝興救援のため、18000の兵で関東方面へ出陣しています。
そんな中、1525年4月13日には、北条勢と上杉朝興勢が高縄の原(現在の高輪)で激突しています。
これらの事実を考慮すると、武田信虎は八王子から品川方面に向けて移動中で、辰街道を通過したと言う可能性が高いです。
ただし、その時の武田勢が実際に戦闘に加わったのか、途中で退却したのかなど、行動についてはよくわかっていません。最終的に上杉朝興は河越城へと敗走しています。

馬坂に伴う別の武田関連説

丸崎の馬坂と武田氏が関係する古話として興味深いのが、武田の軍勢が小田原城を攻撃する際に上溝村の農民も加勢しようと、坂を馬を伴って滑るように下ったので、馬坂と呼ばれたと言う話もあります。
この話を信用すると、武田の小田原攻めとすれば、武田信玄しか行っていないので、武田信虎の子・武田信玄が八王子の滝山城攻めのあと南下して御殿山峠 → 橋本 → 塚場 → 作の口 → 上溝 → 当麻 と進軍した1569年に、相模原の河岸段丘の上にいた農民が、小田原を目指す武田信玄の軍に加わろうとしたと考えられます。

> 相模原の戦国時代ヒストリア