新選組・局長「近藤勇」は、相模原の上溝も訪れていた

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 調布出身の新選組・近藤勇が、江戸または日野にいた頃、相模国高座郡上溝村(現在の相模原市中央区上溝)の名主・佐藤為彦宅を訪れたそうです。

 土方歳三の姉・のぶが、日野宿で近藤勇らを支援した名主・佐藤彦五郎(佐藤俊正)に嫁いでいますので、この日野の佐藤氏と、上溝の佐藤氏は親戚筋?と想像が膨らんでしまいますが、調べてもわからない状態で関連性は不明です。

 いずれにせよ、近藤勇が訪ねるとしたら、出稽古の可能性があり、そんな用事で上溝の佐藤為彦さんの家を訪れたのでしょう。

 ある日、近藤勇が上溝の佐藤為彦宅を訪れると、佐久間象山の門人で奇人である鷹取胖斎が先客としていました。佐久間象山と言ったら、勝海舟や、吉田松陰、坂本龍馬、山本覚馬なども門人として名が見られます。
 この鷹取胖斎(たかとりばんさい)は佐久間象山だけでなく、漢詩の遠山雲如と、儒学の菊池菊城にも学んで、上溝村の蘭方医をしていたと言う事です。
 遠山雲如は、厚木や八王子などを転々し、詩を教えて生計を立てていたそうなので、相模原にも来て、鷹取胖斎は学んだのでしょう。
 菊池菊城(きくちきくじょう)は、寒村僻地で農民やその子弟を教授していたそうで、理化学研究所の創設者でもある実業家・渋沢栄一も学んだそうですが、晩年は神奈川県愛川町にで過ごしたそうなので、その時?に鷹取胖斎は学んだのでしょう。

 ちなみに、近藤勇や土方歳三を支援した小野路の名主・小島鹿之助も、漢学・漢詩を鷹取胖斎からだけでなく、遠山雲如、菊池菊城からも学んでいます。

 ともあれ、近藤勇と鷹取胖斎は、上溝の佐藤為彦宅で出会ったのですが、その時、佐藤為彦さんが大食家の二人に、どちらが多く「とろめし」を食べられるか?と競争させる提案をしたそうです。
 近藤勇も大口で食べ、鷹取胖斎も流すように食べ、近藤勇19椀、鷹取胖斎20椀と、この健啖ぶりに、さすがの近藤勇も兜を脱いだと伝わります。

 鷹取胖斎も熱烈な尊王攘夷論者で、1863年に、近藤勇と土方歳三は、京に上った訳ですが、その翌年、1864年秋に鷹取胖斎は肺患で血を吐きながら没したと言います。

 1863年11月に、京から土方歳三(新選組副長)が、小野路の小島鹿之助へ出した手紙の中に「どうか上溝村へもよろしくお伝えください。」と記載しています。
 1864年8月19日に、小野路の小島鹿之助と橋本道助に出した手紙にも「上溝村の佐藤さんによろしく伝えて欲しい」とあります。
 そして、1863年の冬に上溝村で火災が発生した事を聞いて驚いた。まだ、見舞いの手紙を出していないので、よろしく伝えて欲しいと、1864年9月21日の手紙に記載が見られます。

 なお、1864年1月2日付で、京都の沖田総司が小野路の小島家と佐藤歳四郎の両名に当てた年賀状の手紙があります。
 また、1865年3月21日付で、沖田総司が日野の佐藤彦五郎へ手紙を出した内容には、土方歳三が江戸に隊士募集で下向する件と、山南敬助切腹の件が記載されているが、小野路や上溝にも手紙を出すつもりだったが、手紙を出す暇がないので、よろしく伝えて欲しいと記載しています。
 この上溝の主は佐藤歳四郎と考えられますが、佐藤為彦さんと同一人物なのか?などは確認が取れていません。

 いずれにせよ、上溝の名主・佐藤為彦(佐藤歳四郎?)は、近藤勇だけでなく、土方歳三、沖田総司とも面識があったものと推測できます。

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