護良親王幽閉の際に寵妃として仕えていた雛鶴姫(ひなづるひめ)と言う女性の悲劇についてご紹介したい。
護良親王については、淵辺義博の中などで詳細を記載しているので、是非ご覧願いたい。
1335年7月23日、中先代の乱の際、鎌倉にいた護良親王が暗殺される。
雛鶴は、急を聞いて駆けつけ、従者と共に護良親王の守護神の天神像を奉持し、御首を拾い、鎌倉を逃れたとされる。
ひの雛鶴姫(ひなづるひめ)は、竹原八郎の娘・滋子で護良親王が十津川の黒木御所にいた際に見そめられたようだ。
やがて身重となっていたが、護良親王が鎌倉で幽閉されたと聞くと、近臣の松木中将宗光や菊地次郎武光達に付き添われて、鎌倉に急いだ。
しかし、僅かの差で最後には間に合わず、遺骸を見つけると泣き崩れたと言う。
折しも北条時行(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の次男)の軍勢が鎌倉に迫っていたので、雛鶴姫は馬場正国ら数人の従臣らと共に山を信奉する人の姿に身を変えて、東海道から京に行くことを計画(十津川に戻ろうとしたとも?)した。
しかし、東海道は足利尊氏の軍勢も向かってきたことから難を逃れる為、大山に篭ったされる。
さらに甲斐から京へ逃げることになり、大山から津久井方面(奥三保)へと進んだようだ。
夜は農家の軒先で夜露をしのいだ。衣の袖は破れ、姫の足には血がにじむ。
食べ物は木の実をとったり、農家から少しだけ分けてもらったり、疲れと空腹と戦いながら、苦しい旅を続けましたが、そのとき、雛鶴は護良親王の子を宿していた為、山越えをした際にとうとう倒れてしまい、姫を背負った一行は、夜にまぎれて津久井の青山村に辿り着き、あるお寺の門をたたいた。
旅の疲れか、姫の病は重く、床にふせる日が続き、しばらく津久井の青山に留まった。
その間に護良親王のため供養塔(千部塚)をその寺に建てたと言う。
その後、雛鶴姫一行は牧馬峠を越えて現在の藤野町に入り、小舟集落から峰山の肩を越えて秋山村に入ったようだ。
さらに一行は追っ手を逃れる為、甲斐入口の秋山、無生野まで来たが、権田橋のたもとで雛鶴が産気づいてしまった。
無生野には人家がほとんどなく、また後難を恐れて村人は誰一人として宿を貸す者もない。供の者達はやむなく、木の葉を集めて、しとねを作り産所として、雛鶴は皇子を産んだ。
しかし、季節は冬で、山間の風も冷たい。また、寒さと疲労の為に、供の懸命な看病も空しく、雛鶴も皇子も亡くなってしまったのだ。
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その悲しさに、供の者達は雛鶴と皇子の亡骸を近くに葬り、護良親王の御首及び錦旗を甲斐の石船神社に祀った。
また、その20年後、護良親王の王子、綴連王(つづれの)が逃亡して、秋山にたどり着き、村民の話に不思議な因縁を感じ、村に住み着いて73歳の天寿を全うした。
そこで村では、護良親王、雛鶴姫、綴連王を神に祀り、雛鶴神社を創建した。
なお、この綴連皇子(つづれおうじ)こそが、松葉を敷きつめた仮の産屋で雛鶴姫が産んだ子とする伝承もあり、その場合、雛鶴姫の辞世の句は
果てぬとて 松の緑は 勝りけり 我が黒髪も 風のさなかに
とされている。
なお、富士古文書によると、護良親王の首は、別行動を取った松木宗光らが富士浅間大社に納めたとされる。
その後、護良親王の御首は漆で塗り固められ神宝となったが、足利尊氏らの探索から逃れる為、石船神社の御神体となった。
その石船神社には現在でも祭られていると言う。
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無常野の雛鶴神社
「雛鶴峠」は、雛鶴姫が愛する護良親王の御首を抱き、涙ながらに越えた峠とされ、「無生野」は宿る家もなく、姫も皇子も短い命を散らせた無常野だと名付けたとも伝えられている。
山梨県秋山村には無生野念仏があり、これは護良親王の悲劇にまつわる人々の魂を鎮めるためのものと言われている。
津久井の青山から秋山までの山道(鎌倉街道)を雛鶴街道とも呼ぶ。
舞鶴神社は下記の地図ポイント地点。
駐車場はないが、ちょっと先の直線道路沿いに短時間停めて参拝させて頂いた。
雛鶴姫は南の方(南方)、錐鶴姫(北畠親房の娘)、あるいは竹原滋子とも言われ、姫と綴連皇子の生死については主に下記のとおりである。
・雛鶴姫は産後すぐ他界し、綴連王も間もなくはかない命を絶った。
・綴連王はしはらく生存したが幼児のうちに他界し、雄鶴姫もそのあと間もなく他界した。
・雛鶴姫姫は産後間もなく他界したが、綴連王は12~13歳まで生存して他界した。
・雛鶴姫、綴連王、共に秋山に土着した。
・綴連王は南朝方に加わったが、戦い敗れて隠棲した。綴連王は大塔氏を称したとも。
残された家臣たちは、3人の霊を末長く供養する為、この無生野に住んだとも言う。
雛鶴神社には雛鶴姫の供をした藤原宗忠、馬場小太郎ら2人の従臣を供養する老松が2本あり、「お供の松」と呼ばれていた。
護良親王の首は、都留市にある石船神社ら祭られている。
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また、津久井の関には、護良親王の菩提を弔った、光明寺がある。
かつては供養塔もあったと記録されているが、現在は不明。
> 津久井三姫物語
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