相模国の歴史に関する情報
相模原の江戸時代 (2) 上溝・下溝
上溝・下溝 1590年当時は、約5000石を領した青山忠成(1551年9月6日~1613年4月10日)の1領地となる。他には、今泉村(海老名市)、小稲葉村(伊勢原市)、城所村(平塚市)などを領した。 青山忠成は三河国額田郡百々村(現在の愛知...
相模国の歴史に関する情報
上溝・下溝 1590年当時は、約5000石を領した青山忠成(1551年9月6日~1613年4月10日)の1領地となる。他には、今泉村(海老名市)、小稲葉村(伊勢原市)、城所村(平塚市)などを領した。 青山忠成は三河国額田郡百々村(現在の愛知...
1590年小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入ると、相模国も徳川家を中心に知行された。その後、1700年代後半まで約200年間、相模原も領主が目まぐるしく変わる時代が続いた。 まずは徳川家康が関東に入った1590年からの相模原をご紹介...
阿部正喬(1672年4月28日~1750年7月26日)は、武蔵・忍藩主で老中も勤めた阿部正武の長男。 1699年9月28日奏者番兼寺社奉行。1704年10月29日忍藩相続。奏者番、寺社奉行辞任。 6代将軍徳川家宣の時、1711年4月11日...
蒲原徳兼(神原徳兼、かんばらのりかね) 神原三郎左衛門 (生年?、没年?)蒲原徳兼(神原三郎左衛門)は元・今川家の一門衆でありながら、江戸時代初期に、相模原市の牧野にて帰農した武将である。蒲原氏は藤原南家からの出自で、室町後期から鎌倉時代を...
前頁では「白百合姫」に関する伝説をご紹介させて頂きましたが、2つの伝説を検証してみます。 まず後者の明王峠近くの長者屋敷の姫の件ですが、当初、どのような人物なのか、全くわかりませんでした。関連して、重方と言う名の武将がいたとの話もありまし...
津久井三姫物語でもご紹介致しておりますが、津久井には姫にまつわる伝説がいくつかあります。相模原市の白百合姫に関するご紹介です。陣馬山近くの明王峠には甲斐・武田家が武運を祈願したという不動明王があります。下記写真がそうです。その明王峠から南の...
戦国の世にさる国から追われ、丹沢山塊の麓を流れる神の川に身を投じた折花姫 武田家臣としては戦陣での使番であるムカデ衆(大百足差物衆)の武将であった小山田行村(小山田八左衛門尉行村、小山田八左衛門、小山田彦之丞)は、武田氏滅亡の折、小山田信茂...
津久井城に近い場所に鳥屋と言う村があり、その村の真ん中をゆうゆうと川が流れていた。川の下流には横笛を好む若者がおり、その若者は毎晩岸辺に立って笛を吹いていたが、ある月夜の晩、若者は足の向くままに川上へと笛を吹いて行った。「川の上の方には何が...
護良親王幽閉の際に寵妃として仕えていた雛鶴姫(ひなづるひめ)と言う女性の悲劇についてご紹介したい。護良親王については、淵辺義博の中などで詳細を記載しているので、是非ご覧願いたい。1335年7月23日、中先代の乱の際、鎌倉にいた護良親王が暗殺...
相模原市の津久井城に近い津久井又野に城山(245m)と呼ばれる場所があります。 又野城山とも呼ばれます。 天然の要害地形であり、相模川と道志川の合流点である沼本の渡しから三ヶ木へと津久井街道を登ってくる敵を高所から迎撃できる有利な防衛線陣...