相模原の歴史に関する情報
小倉の八幡宮参道【相模原から見える星空浪漫】
相模原市緑区小倉にある八幡宮は見事な参道が保存されている。直線道で、鳥居から神社を眺めると、参道は320度の北西を向いて、かつてあっただろう山頂に視線を誘う。この320度という向きは日本の各地に見られる向きで、代表的な風景を挙げると宗像大社...
相模原の歴史に関する情報
相模原市緑区小倉にある八幡宮は見事な参道が保存されている。直線道で、鳥居から神社を眺めると、参道は320度の北西を向いて、かつてあっただろう山頂に視線を誘う。この320度という向きは日本の各地に見られる向きで、代表的な風景を挙げると宗像大社...
相模原市の藤野町にある守屋屋敷跡をご紹介させて頂きます。守屋屋敷跡 まずは、車を止めさせて頂くため、青蓮寺に向かいました。 昔の甲州街道沿いにあります。 上記トップ写真がその青蓮寺です。 境内に入ると守屋屋敷跡に関する案内板がありました。...
←白百合姫伝説と石投げ地蔵嬢が塚からの続きです 石投げ地蔵から階段を一生懸命登りまして、明王峠に戻り、次に底沢峠へと向かいました。底沢峠 底沢峠はベンチもない、ひっそりとした峠ですが、この底沢峠が昔は明王峠でした。 と考えますと、その昔は...
津久井城からほど遠くない所にある、功雲寺(こううんじ)に行って参りました。 新編相模国風土記稿によると、功雲寺は、戦国時代の津久井城主・内藤景定(内藤左近将監景定)が、1534年3月20日卒、功雲寺の開基とあります。 功雲寺は、津久井...
武田信玄が、三増峠の戦いで北条氏照らと戦ったあと、武田勢は沼本の渡しと、津久井の旧街道の2箇所から道志川を渡って「そり畑」と言う地で「勝鬨(かちどき)」を挙げました。 そして、討ち取った武将の首実験も行ったとされ、その場所は津久井の寸沢嵐...
豊臣秀吉が小田原攻めをした時の事です。 佐藤豊成(佐藤伝左衛門豊成、佐藤傳左衛門)は、津久井衆の井上源三郎と共に、1590年4月17日、白根の戦い(白根合戦)※伊勢原市で戦功があり、津久井城主・内藤綱秀から感状を受けています。 北条氏直が...
矢部町にある「箭幹八幡宮(矢部八幡神社)」の御祭神は応神天皇(おうじんてんのう)です。八幡神社の総本宮は、大分県の宇佐神宮です。八幡神社と言うものは各地にありますが、その理由は、大和朝廷が東日本の各地を征服した際に、八幡神社を建立した為だと...
皆様、相模原にも「関所」があったことご存知ですか? 道志道(現在の国道413号)は、甲州街道の裏街道ですが、江戸時代の時は富士講と言う、富士登山の一行も、結構多く通行したため、青根原や青野辺りは、結構賑わったようです。 そして、その青野原...
1590年、津久井城が落城した際、北条家の家臣らの首を埋葬したのがこの「富士塚」とされる。 なお、案内板には徳川勢の平岩主税が津久井城を落城させたと言うが、実際には、徳川勢の本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞らが11000~...
相模原市上溝中学校の場所に「丸山城」があり、その城主が横山と呼ばれたと言う説もあります。 そうです。バナナマンの日村勇紀さんが、テニス部の部長をやっていた上中ですね。 丸山城は横溝五郎太夫なる人物が鎌倉時代後期の1288年~1292年頃...