矢部八幡神社(箭幹八幡宮)と小山田高家のなぞ

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矢部町にある「箭幹八幡宮(矢部八幡神社)」の御祭神は応神天皇(おうじんてんのう)です。

八幡神社の総本宮は、大分県の宇佐神宮です。
八幡神社と言うものは各地にありますが、その理由は、大和朝廷が東日本の各地を征服した際に、八幡神社を建立した為だと推測できますので、この矢部の八幡神社も以前から小さな社祠があったのでしょう。

社伝によると、推古天皇が病気平癒祈願をした際の616年に、多額の寄進を受けたとありますので、聖徳太子の時代にはそれ相応の規模を誇ったと言う事ですね。

箭幹八幡宮

その後、1062年には源義家が奥羽から移動の途中、木曽にて宿泊(病気になったとも?)した際に戦勝祈願(病気回復祈願?)したと伝えられます。

箭幹八幡宮




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箭幹八幡と木曽観音の化身

源義仲(木曾義仲)の父である源義賢と、源義平が木曽柄沢にて対峙したと言います。
恐らくは1153年頃と推定しています。
源義賢は京都から逃れて来たようですが、木曽仲三兼任らの軍勢が加わり3000にもなり、このあと本拠地とした大蔵の舘を目指したようです。
この時、源義平は亀田政清や渋谷金王丸などの約700騎で迎撃したようでして、戦場となった木曽柄沢の場所ですが、龍造寺よりも北側の木曽西4付近だと推測しています。
このあたりは、古くからの街並みも残る場所です。

何日間か小競り合いになったようですが、その戦場に童子を連れた白髪の老翁が現れると、危険を顧みず飛来する矢を拾い集めて、兵力が少なかった源義平に与えたと言います。
そして、手に持っていた杖を打ち振い、両軍に和平を勧めると、鎮守八幡の森の方角に、老翁も童子も姿を突然消してしまいましたる
源義賢と源義平は、おそらく八幡様の化身で、童子は観世音菩薩の化身に違いないとして、両軍は互いに軍を退いて神前に和睦を誓ったと伝わります。

記念に羽矢を添えて屋根を葺くなどして社殿を修理したことから、箭幹(やがら)社八幡宮と呼ばれたのです。
そして、この地は木曽駅として栄え、各所に矢拾観音があります。

小山田義重(小山田次郎義重)とは?

鎌倉時代に入ると小山田城主であったとされる小山田義重(小山田次郎義重)が、嫡子・小山田小三郎に家督を譲ると、覚円坊と称して矢部八幡神社の宮司になったとあります。

この小山田義重(小山田次郎義重)なる武将は、1223年頃に、上小山田神明神社を創建したともあるため、この年代の武将だと思いますが、よくわかりません。
1221年の承久の乱では小山田太郎と言う武将が見受けられますが、この小山田太郎は甲斐・武田家の軍勢として参戦していることから、郡内・小山田家の系列とも推測できます。

小山田氏は1205年の畠山重忠の乱にて没落したあと、郡内・小山田行幸は生き延びます。

その後、小山田家の動向が小山田高家の時代(1300年頃)まで良くわかっていないのですが、この伝承によると没落後も小山田次郎義重と言う武将が、小山田にてまだ健在だったとも受け取れます。

ちなみに忠生の地名は、新田義貞の身代わりとして討死した忠義に篤い小山田高家(初代・小山田有信から6代目)が生まれた地であったことから、忠義ある者の生地として「忠生」と言う名称になったとようです。
一般的にはこの小山田高家が、旧来の小山田庄を取り返したとされているのですが、矛盾します。
でも、小山田高家が、町田の忠生出身であったならば、下記のような仮説が成立します。

小山田城の小山田家は、没落していなかった。
勢力は弱めたと推測できますが、子孫は生き延びていたと断定して良いでしょう。
その人物が、小山田義重(小山田次郎義重)や、嫡子・小山田小三郎と言う事になります。
その子孫が小山田高家と言う事なのでしょう。

小山田義重(小山田次郎義重)を検証してみた

知行地(勢力範囲)は、小山田だけでなく町田の忠生・木曽・矢部が少なくとも含まれていたと言えます。
そうして考えると、小山田高家の墓所が小山田町の大泉寺であることもすんなり受け入れられます。

小山田高家と浄瑠璃姫伝説と小山田義重の伝説(長池伝説)

厳密に申し上げますと、箭幹八幡宮は現在町田市側になっていますが、江戸時代までは境川を挟んで「矢部村」であったと考えられる為、当サイトにて取り上げておりますこと、ご理解賜りますと幸いです。

箭幹八幡宮

矢部の獅子舞は小田原城の北条家が支配していた戦国時代からあるようです。
本殿は江戸時代の1794年に建立された総ケヤキ造りで、なかなか立派な建物です。

下記地図のポイント地点は、箭幹八幡宮駐車場への入口となります。

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