横山党と愛甲氏

 質問回答編とは?

 当方関連サイトにお寄せ頂きましたご質問などに対して、相模原の歴史研究会所属会員が回答するものです。古い歴史にはわからないことが多いですので、もちろん歴史認識の違いや間違えなどがあるかも知れませんまで、あくまでもご参考になさって頂ければ幸いです。

 ご質問内容 (一部略)

 1113年横山党、二十余人が愛甲内記平太夫を殺害し、朝廷より討伐の宣旨が出されたが、横山党は三年間も抵抗し、愛甲氏は、横山党に降伏し、横山季隆が入って、愛甲三郎となったとあります。其の愛甲氏の居住地は何処なのか、又其の顛末について知りたいです。宜しくお願いします。

 回答内容

 まず、愛甲氏の記述がみられる、一番古いことからご案内申し上げる。
 時は、平安時代の末期、武士が台頭しつつあった、1113年3月4日、横山隆兼(横山季隆、山口隆兼、山口野太郎)の頃とされていますが、横山党の20余人が、相模国愛甲庄を統治していた愛甲内記平大夫(あいこうないきたいらのたいふ)を殺害した事により、朝廷より討伐の宣旨が、相模・常陸・上野・下総・上総五カ国の国司に出され、秩父重綱(秩父権守重綱)、三浦為次(三浦平太為次)、鎌倉景政(鎌倉権五郎景政)ら中央政府軍より、横山党は討伐を受ける。しかし、横山党は3年間も抵抗。そして、横山隆兼は源為義の被官でもあり、その保護の下に危機を脱し、愛甲氏は横山党に降伏。
 のちに、槙山隆兼の3男・横山季孝(槙山季隆)(すえたか)が愛甲庄に入って愛甲三郎と名乗った。原因は横山庄(舟木田荘)をめぐる主権争いとされている。
 横山隆兼はさらに相模の海老名・波多野氏に娘を嫁がせ、相模国へ横山党が本格的に進出。また別の娘は秩父平氏・秩父重弘の妻となり、のち有力御家人となった畠山重能・小山田有重を産む。末娘は鎌倉党の梶原景時の母。さらに二人の孫娘は三浦一族の和田義盛と、高座渋谷の渋谷高重の妻となり、姻戚関係を結ぶことにより、横山党一族は勢力の拡大を図った。

 小田急・小田原線に愛甲石田と言う駅名があるように、愛甲氏の本拠地は、神奈川県厚木市愛甲となる。愛甲季隆(愛甲三郎季隆)の館跡は、現在、神明神社がある場所と伝わる。明治のころまでは「から堀」の跡が東・南・西側にあった。また、この付近には「御屋敷添〈おやしきぞえ〉」などの地名も残されている。なお、愛甲石田駅の東側の丘の先端には愛甲城があったとされる。現在、円光寺がある場所に当たる。南東方面が何キロ先まで見渡せる丘であるが、今では住宅が多数立っており、展望はあまり利かない。
 
 横山党から愛甲に入り、愛甲を名乗った愛甲季孝(愛甲季隆、愛甲三郎)は1150年生まれとされる。他に横山隆兼の5男の小野五郎も愛甲五郎を名乗っている。愛甲季隆(愛甲三郎季隆)は、幼いころから武術にすぐれ、のち源頼朝の直属武士となる。御家人中、特に弓の名手として有名で強弓。特に騎射を得意としていたようだ。
 伊豆にて平家に反旗をかかげた源頼朝は、石橋山の戦いで敗れはしたが、関東の武士の協力を得て再び勢いを回復し、破竹の勢いで進軍し、1180年8月、鎌倉を本営と定めた。1180年12月には鎌倉の源頼朝邸が完成し、新築を祝う弓はじめの儀式が催された。
 この際、愛甲季隆(愛甲三郎季隆)はこの弓はじめの射手として選ばれ、1番の弓を引いた。以後、「吾妻鏡」には、弓道新築の弓はじめ、由比ヶ浜で行われた牛追物、稲村ヶ崎での小笠懸、鶴岡八幡宮で催された流鏑馬、伊豆国での鹿狩りなどに射手として愛甲季隆(愛甲三郎季隆)の名が見られる。
 1193年5月28日の夜、源頼朝が富士の裾野で巻狩りを催した際に勃発した「曽我兄弟の仇討ち」では、源頼朝に同行していた御家人で、手きずを負った者の1人として、愛甲三郎の名前が記録されている。
 源頼朝が没すると執権・北条氏の策略が盛んになり、1199年秋には、二俣川にて鎌倉幕府軍に畠山重忠が討たれる。「吾妻鏡」では、愛甲季隆(愛甲三郎季隆)の放った矢が畠山重忠に当たった事が記載され、愛甲の武名を知らぬ武士はいなくなった。。
 しかしながら、1213年の和田合戦では、打倒北条を掲げた和田義盛に、和田氏と姻戚関係にあった横山党は一族を上げて味方し、愛甲季隆(愛甲三郎季隆)を筆頭に愛甲氏も参陣するが、北条氏の巧みな策略に和田勢は大敗する。
 横山党一族のほとんどが討死し、愛甲氏も愛甲季隆(山口野太郎)や愛甲五郎なども討死。愛甲氏は没落した。
 その和田合戦より前の1197年(1186年とも)に、愛甲賢雄(山伏愛甲小太郎忠雄)が島津忠久・薩摩国下向に従って、相模から大隈国桑原郡吉松郷に移り住んだとされ、筒羽野村を所領として与えられたようだ。その愛甲氏は内小野寺の住職を代々務め、戦国時代には島津家に重用され、愛甲相模坊光久と言う住職が敵国との交渉役などに当たっている。
 その薩摩・愛甲氏の末柄として、九州の愛甲一族は、島津家臣として江戸時代にも愛甲緒民部左衛門らの名が見らる。このように相模の愛甲氏は滅んだが、愛甲氏は九州にて続いていたことが伺える。

 愛甲庄は熊野山に寄進され1243年7月28日には、山内一豊(江戸時代の土佐藩主)の先祖にあたる熊野神社系の藤原清俊が、母親の鶴熊から、愛甲庄を譲られた。現在、愛甲石田に鎮座する熊野神社がその名残りである。

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 愛甲三郎館 弓の名手「愛甲季隆」の解説