相模原にもすごい歴史を持つ神社があった
約1万年前に氷河期が終わり温暖化となり、豊かな縄文時代に入った。
相模原の各所にも縄文時代の遺跡が発見されているが、その中でも60軒以上の住居跡が発見されている「勝坂遺跡」は、縄文時代中期前半頃(約5000年前)における日本を代表する大集落跡となっている。近辺には既に住宅が建つなどして、発掘されていない住居跡も多数あることが予測でき、ある程度まとまった人口の古代日本人(縄文人)が大変多く生活していたことが伺える。
なぜ、大集落になったのかと言う理由は簡単だ。住みやすかったのだ。
相模原の台地は「原っぱ」なので、鹿やイノシシ、ウサギなどの狩猟ができる。
え~? 鹿やイノシシは山にしかいないよ! と言うのは現代の話。昔は山には鹿などはおらず、平地にいたのだが、今は人間の生活圏が広がり住めなくなった今では、鹿は山でしか生きられなくなったと言うのが実情だ。
そして、勝坂遺跡からはちょっと足を伸ばせば、相模川で魚を捕まえる事もできる。そして、勝坂の地は食料にもなる木の実や山菜が豊富だった。すぐ西側には鳩川が流れ、川でドジョウも採れるし、その鳩川近くに、夏は冷たく冬は温かいと水温がほぼ一定な地下水が湧水する場所もあり、生活に一番重要な新鮮な「水」の確保ができたのだ。
そんな豊かな勝坂の地に伝わる神社が「有鹿神社」である。現在でも、勝坂遺跡の水源地(湧水地)に、小さな祠がある神社だ。
もっとも「神社」と言う形態ができたのは、もっと後年なので、約5000年前の当時は「自然信仰」として崇められていたと考えられる。厳しい自然の中で生活する人々にとって、絶え間なく水が出ている場所は神聖な場所とされ、水の神がいると信仰し、現在のような立派な建物の神社を建てると言うよりは、その神聖な場所じたいを信仰したのだ。
そのため、その小さな祠がある有鹿神社の祭神は「有鹿比女命」(アリカヒメノミコト)。女性神で、水の女神と伝わり、安産、育児などの信仰もある。有鹿神社の名称の由来は良くわかっていないが、もしかしたら、鹿さんが水を飲みに来る場所として、アルカ(有鹿)になったとも考えられる。
日本で一番由緒ある「伊勢神宮」の起源は約2000年前(西暦25年頃)とされている。相模原の有鹿神社は約5000年前と遥かに古い。
有鹿神社の祭神は「有鹿比女命」の神様の名は、日本書紀に登場しない。理由は簡単である。日本書紀は西暦720年に完成した書物で、日本を征服した大和政権(朝廷)関係により記載されたものだからだ。要するに有鹿比女命は、地方王国レベルのマイナーな神様なのだ。
もしかしたら、勝坂遺跡を初めとして相模原・神奈川県辺りの縄文集落は、1つの国家としての機能を持っていたことも考えられる。その国家が信仰した神の1つが有鹿比女命だとも言える。
いずれにせよ、相模原近辺の民が信仰していた神は、推測するに他の土地からやってきた「征服者」によって、その征服者の本拠地に移動させられ、有鹿神社の本宮は海老名の相模川横に鎮座した。海老名の有鹿神社(本宮)の祭神は、農耕に欠かせない太陽神で男性神の有鹿比古命である。
今でこそ、普通の神社のように見える海老名の「有鹿神社」であるが、一番古い記録では664年に祭礼を行った文献が発見されている。鎌倉時代には南北約3~4kmもの広大な社領を持ち、鎌倉幕府の源頼朝の信仰も厚く、境内の建物は12以上もあったと言う。更に、すごいことに朝廷から「正一位」の位を賜っているほど、大変由緒ある神社だったのだ。
後期旧石器時代 30000年前~12000年前 海岸線は現在よりも-100m (20000年前は氷河期)
縄文時代 12000年前~2400年前 海岸線は現在よりも +4m (6000年前)
弥生時代 2400年前~700年前(西暦300年)
■縄文時代の生活
縄文時代には氷河期が終わり、マンモスなどの大型動物が温暖化により絶滅。その反面、木の実や魚介類や小型動物が増えたことなどにより、人々の生活は狩猟から採取へと徐々に変わってきた。そして、採取した食べ物を保管したり、木の実のアクを抜くために煮炊きに使うために「土器」が作られるようになったのだ。
わき水が得られる台地上に集落を形成する縄文時代の特徴で、勝坂遺跡は、まさに典型的な例である。
ちなみに日本の縄文土器(16000年前の土器)は、年代測定技術に多少の不安要素は残るが、世界で最も古い土器とされている。(勝坂式は縄文中期の約5000年前で、この頃の気候は現在とほぼ同じでだが、ほんの少し温暖化で、平均気温も1~2℃高かった。)
なお、縄文時代まで人々は平等な生活を送っていた。
その後、若干気候が寒くなり始めたので、人々は勝坂よりも暖かい土地を目指して移っていったものと推測する。