前頁では「白百合姫」に関する伝説をご紹介させて頂きましたが、2つの伝説を検証してみます。
まず後者の明王峠近くの長者屋敷の姫の件ですが、当初、どのような人物なのか、全くわかりませんでした。関連して、重方と言う名の武将がいたとの話もありましたが、どのような人物だったのかも良くわかりませんでした。
しかしながら、その後、 高尾山春夏秋冬ハイキングの麦藁帽子様より、大変貴重な情報をお寄せ頂きまして、下記の事項が判明致しました。
相模湖の与瀬宿から、現在の藤野駅手前(相模湖ICがある付近)を、吉野宿と呼びます。宿場制度ができたのは江戸時代ですので、甲州街道ができる前から、吉野と言う地名はあったのでしょう。
その吉野に土着した武将として、吉野重方(吉野越後守重方)と言う人物がいる情報を麦藁帽子様より頂戴しました。美濃源氏吉野氏系です。
なんでも、1221年、承久の乱にまでさかのぼります。
吉野重泰が後鳥羽上皇方について、京に上る鎌倉勢を宇治勢多の戦いで迎え撃ち、北条義時に敗れます。
鎌倉に叛いた武将の所領はすべて没収されていますので、吉野氏も没落して、武蔵国などを放浪したと考えられます。
その後、吉野重泰の子である吉野重方(吉野越後守重方)が、1284年に藤野町の吉野に土着して、吉野の吉野家の初代となったと言う事です。
※下記は昭和29年頃の吉野
明王峠の東南約100mの尾根に長者屋敷と言う地名がありますが、始めはその地に住んだとする説があります。
上記写真がその長者屋敷があったと考えられる平坦な場所です。
いずれにせよ、与瀬・吉野辺りに住める事になったと言う事は、鎌倉初期の横山党と姻戚関係でもあった可能性もあり、上野原の加藤氏又は郡内の小山田氏などの庇護があった可能性もあります。
全盛期には八王子や相模原から大月・都留まで勢力を誇った槙山党との繋がりで、吉野重方は深い山にある峠付近に安住の場を得て、その後、藤野の吉野の里に腰をおろし、その地の地名が「吉野」になったと容易に推測できます。
吉野家の屋敷は、江戸時代、吉野宿の本陣として使われ、当時、甲州道中最大の規模を誇り、賑わっていたと言います。
吉野氏と言えば、戦国期に今川家臣として駿河の富士郡山本村に吉野氏一族が多く見られ、その駿河の吉野氏から武田の軍師としても知られる山本勘助が出自したと言う説もあるので面白いですね。
山本勘助の苗字は、最初「吉野」だっとする説があります。
このように、明王峠近くの長者屋敷に住んだ人物が、その後、藤野の吉野の名家となった吉野氏(吉野重方)だとする説もあるのですが、別の説としては、相模湖の照手姫伝説としても知られる美女谷(美女谷温泉)に旧家・小林家があります。
小林氏の先祖は北条氏に仕えた小林肥後守とされ、最初の居住地は長者屋敷だっとする説もあります。
この小林氏は、もしかしたら、成田氏長の家臣の小林氏と関連があるのかも知れませんが、詳細は不明です。
「矢の音」と言う地名の由来は、甲斐・武田と相模・北条の戦があり矢の音が飛び交った所と言う伝承もあります。
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白百合姫
白百合姫自身についても検証してみました。
佐竹氏は武田氏と同じ甲斐源氏を先祖に持つ、言わば同族です。
戦国時代の1569年頃に、北条氏と上杉氏の同盟に対抗して、武田信玄と佐竹義重は同盟を結んだ経緯は確かにあります。
武田勝頼が自決したのは1582年なので、最初の伝説を信用すると、その年より前の1573年~1581年の間に、武田の一族の娘が佐竹氏に嫁いだとも考えられます。
ただし、武田信玄が没したのは1573年4月と考えられていますので、本当に武田一族から佐竹に嫁いだ女性がいたとしたら、武田勝頼の時代であると言えるでしょう。
武田と佐竹は書簡のやり取りこそはあった事がわかっておりますが、親戚(一族)が多い武田勢から佐竹勢へ姫が嫁いだと言う確認がとれません。また、佐竹氏に白百合姫と言う娘がいた事も裏づけも取れませんでした。
武田勝頼には娘が3人いたとされています。
長女(紅映林葉大姉)は名前不明ですが韮崎市中田町の恩昌寺にお墓があります。
次女は1581年?に武田信豊に嫁いでいます。名前は不明です。
三女・貞姫は武田家滅亡時に武田信玄の娘・松姫と供に、八王子の恩方へ逃れています。
その為、白百合姫を生んだ武田一族(武田一門)の姫は、恐らく武田本家(武田信玄や武田勝頼の娘)ではない武田の分家や親戚の出と推測できますが、穴山信君をはじめ、武田一族はたくさんおり、当時、大月を本拠とした小山田信繁も武田とは姻戚関係があり、その小山田氏も武田一族(親類衆・一門衆)です。
また、武田勝頼に嫁いだ、相模国の北条氏康の娘の名前でさえ、どのような名の姫だったのか、わかっていない有様で、武田家では女性は軽視されており記録が乏しく、佐竹に嫁いだ白百合姫の母の名も当然のように不明です。
更に、当時の武家の姫の名に「白百合」と言う名をつけるのか? これに関しては、だいぶ疑問を感じます。
戦国時代の百合は根菜として食料でしたので、当時食べ物の名前を人間の名前にする事はあまりなく、現代でも同じです。
同じ根菜(鱗茎系)で名前にすると、タマネギ姫、サツマイモ姫、大根姫、ニンジン姫、ニンニク姫・・いませんよね。
白の漢字を取って「百合姫」でも聞いた事がありません。根菜(食べ物)は名前にしないのです。
単純に「塚」がある場所に、白いユリが咲いているなどの関係で、しらゆりと言う清楚なイメージから、近代になって姫伝説に姫の名を付けたと言うのであれば、納得は行きます。
実際、明治後期から昭和前期に掛けて、日本が海外に輸出した品目の第2位が、当時「ユリの球根」であり、また、富士山から神奈川に掛けてが主な栽培産地でしたので、陣馬山近くの明王峠付近でも明治初期当時、白いユリが見られたと充分考えられます。
それらを考慮すると、母の名も、姫の名も、もともとは両方不明だったのか? と考えるのが妥当で、人に伝説として伝える際に、分かりやすい姫の名前として、後年(明治に入ってから?)、名づけられた可能性も否定はできません。
そして、前ページでご紹介した通り、同じ地に2つの異なる伝説が残されているというのも、腑に落ちません。
1つだけ言えるのは、石を積み重ねた場所は、昔、誰かが亡くなって遺体を埋めたか、遺体に石を盛った?のかした場所であることは、間違えないだろうと言えると存じます。
> 津久井三姫物語
参考・引用
麦藁帽子様の高尾山春夏秋冬ハイキング