徳川忠長 相模原の一部も知行していた将軍の弟

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将軍争いに敗れた徳川忠長

徳川忠長(1606年~1633年)は徳川幕府二代将軍・徳川秀忠と正室・お江与の間に生まれた男児で、3男にあたる。
お江与は、浅井長政とお市(織田信長の妹)の間に生まれた三女で、姉は茶々=豊臣秀吉の側室・淀殿。

徳川忠長の幼名は国松。生母のお江与が育てたこともあり容姿端麗だったようで、父と母の寵愛を受けることになり、一時は次期将軍と目される。
病弱であった兄・竹千代(のちの3代将軍徳川家光)もお江与の子だったが、乳母であるお福(のちの春日局)が育て、お江与とお福との間で次期将軍争いの確執となった。
よく春日局や柳生一族のドラマや映画で出てくる話である。

1618年、甲斐国にて18万石。
1620年元服し徳川忠長(とくがわ-ただなが)となる。


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結果的に長男であった徳川家光が3代将軍に就任すると、翌年1624年徳川忠長は駿河国・遠江国を与えられ甲斐国を合わせて55万石を領する。
駿府城下の整備などで、兄・徳川家光にも劣らない優秀な政策手腕を発揮している。

1626年8月19日には従二位権大納言となり、駿河大納言と呼ばれるが、1626年9月15日母であるお江与が54歳で死去すると、その後、理由なく農民を切ったり、家臣の手打、殺生禁断の駿河浅間神社で猿1200匹を狩るなど、数々の奇行が目立ち、大御所・徳川秀忠は徳川忠長の出仕を停止しする。
徳川忠長は徳川秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、1631年5月甲府での蟄居を命じられる。
徳川秀忠の死後の1632年10月20日には、徳川家光から駿河・甲斐両国を没収され、高崎(上野国)へ幽閉。
処分が決定しないまま1年が過ぎ1633年12月6日に高崎城で自刀。享年28歳。

相模原では大島・上九沢・下九沢・上溝・下溝・当麻・田名・新戸・磯部と領していたが、改易された際に没収され、徳川家光の信頼厚い松平信綱が1633年忍藩主になった際にそっくり与えられたようである。

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