鳥取の矢部氏
駿河国の住人矢部彦五郎の一族・矢部十良暉種が戦功によって鎌倉幕府より八東若桜郷20余力村を賜り、山田の山上(鶴尾山)に城を築いたと書かれている。これが若桜鬼ケ城の始めで、正治2年(西暦1200)とある。
相模の矢部氏との関連性はないものと考えられる。
戦国時代 駿河・尾張の矢部氏
須賀川・矢部氏の名が見られる頃の同時期、駿河や尾張にも「矢部氏」の名が見られ、こちらも注目しなくてはならない。
1432年、駿河国・今川家の重臣の名に矢部氏の名が朝比奈氏(三浦一族)と共に出てくる。
しかし、この矢部氏は上杉禅秀軍で戦った三浦一族津久井氏系の矢部氏と同一族とは考えにくい。
注目すべきは、室町初期頃の人物で、駿河伊達氏の一族に、矢部孫三郎と号した矢部氏貞がいる。矢部為家なる人物の6世代孫と言われている。
伊達氏の場合、仙台伊達氏があまりに有名だが、一族は但馬・駿河にも広がっていたのは事実である。
駿河伊達氏には、横山党一族の矢部為行と同じ名である「伊達為行」の名が出てくるなど、須賀川の二階堂氏と同様、津久井氏系に見られる名が続くような時代もあるので、なんらかの関係があったのではないかと余計な考え方になってしまう。
尾張・織田家に仕える武将で矢部慶全と言う名も見られる
矢部慶全の子・矢部主繁(矢部五郎兵衛尉、小部右馬允)は、先祖を三浦義明の次男・矢部義澄であると言われている。。
矢部主繁は初名五郎兵衛尉。別名、江の奥殿と呼ばれている。
1522年に連歌師宗祇が桑名(三重県)に滞留した時。「桑名という浜につきぬ。浦の宿りは矢部五郎兵衛主繁が宿所なり。」と記述した日記が残されている。
江の奥殿と言うことは、江の奥城(三崎城)の城主であったとも考えるのが自然か?
矢部右馬允(1526~1609) 主繁の子。三崎城主。1609年4月7日死亡。84歳。
南部氏の系図に南部兼綱・母 矢部右馬介 女と見える。矢部主繁の女子か。
矢部家定と言う人物が戦国期活躍する。この辺りは記録が良く残っている。
別名、矢部広佳、矢部光佳、矢部康信、矢部豊後守、矢部善七郎)(1530?~1611)
織田家奉行五人衆として、織田信長に仕え、武将としての戦場での動きはほとんどないが、検使(大坂目付)役(官僚)として、行政・財政・民治の中枢を担った。
1567年8月23日、織田信長より豊後守に任じられ近習に就任。
1577年10月4日、松永久通の人質2名(12才と14才の子供)を、矢部家定(矢部善七郎)と福富秀勝(福角)が近江国安土より連行したとある。
1578年の正月、年賀に諸大名・諸将が出仕した。彼らには信長公より三献の盃が下され、矢部家定・大津伝十郎・大塚又一・青山虎が御酌に立った。
1578年、豊臣秀吉軍が三木城包囲。その時の検使の番替で矢部家定も任じられる。
小笠原貞慶(小笠原民部少輔)は、吉田兼見、矢部家定の説得を受け盆山・ 鉢木を織田信長に献上。吉田兼見が盆山・鉢木を携え早速持参し、矢部家定が披露。
謀反の疑いのある摂津高槻城主・荒木村重へ、使者として福富秀勝、佐久間信盛、堀秀政、矢部家定を派遣し慰留を試みる。
織田信長は、滝川一益(滝川左近)へ見舞として矢部家定と明智光秀(惟任日向守) を派遣し、摂津国有岡城の情報収集を指示。
1579年12月13日、織田信長の命により高槻城の捕虜を尼崎城近くにある七つ松で、1度目の処刑。122人の妻女が磔に掛かり、鉄砲もしくは槍・薙刀によって惨殺。その後、残った男124人、女388人は空き農家4軒に閉じ込められ、火を放たれ焼き殺された。矢部家定が検使。
1580年2月.13日、矢部家定を使者に笠原・間宮へ金銀100枚送る。
3月1日、矢部家定は1ヶ月間伊丹城の城番をする。(織田信長が伊丹城の城番を1ヶ月交替で行うことを命じていた。)
8月1日、織田信長は、矢部家定より到来した注進状を戌刻に披見し、摂津国大坂方面の戦況報告を諒承する。また摂津国中島周辺の封鎖を命令し、本願寺教如の石山本願寺「退城」を急ぎ実現させるよう指示。8月2日石山本願寺城受取りの検使に矢部家定が任じられた。
8月21日 滝川一益と矢部家定は、奈良の法隆寺に到着する。
8月24日 矢部家定は大和国興福寺へ到達とある。
1581年、細川藤孝が宮津に移ると、長岡京・勝竜寺城は矢部家定、猪子平助が守将になった。
1582年1月15日の爆竹の時、菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一、矢部家定が小姓・馬廻を率いる特別の地位を認められた。
徳川家康・穴山梅雪は織田信長の安土城に赴き、明智光秀による接待を受ける。穴山梅雪は矢部家定と森乱丸より、所領安堵の通知を受ける。
1582年6月21日、本能寺の変。矢部家定は豊臣秀吉に属する。
1584年に小牧・長久手の戦い、1587年九州征伐には豊臣軍として従軍。知行3万石とも。
その後、徳川家康に仕えて、近江で1000石を知行する。
1616年、徳川家康死去の際、矢部家定は追腹する。
矢部家家督を継いだのは矢部定政である。
父は本郷泰茂。本郷氏は村上源氏の一流で、若狭国大飯郡本郷の地に代々住したが、織田信長に刃向かい滅ぼされるが、その息子を矢部家定は引取り養子にしたのが、矢部定政である。
矢部豊後守定政とも言う。
本能寺の変後、矢部家定と共に豊臣秀吉に仕えて馬廻となる。
1590年、小田原の役に豊臣側として従軍。文禄の役では肥前名護屋城に駐留し、二の丸を警護する。
1598年頃、1万石を領有した。
1600年、関ヶ原の役では西軍に属し、伏見城攻撃に加わった為、戦後徳川家康により領地没収。
(改易後、200石を与えられたとの説も有。
実兄本郷信富の系統は徳川家旗本として存続している。
矢部孫兵衛(~1626)は矢部家定の弟。矢部家定の家督を継ぐ。男子が無かったため三女の次男伊藤貞治を嗣子とする。
矢部忠右衛門は出家し、桑名矢部家は断絶。
矢部甚兵衛は1583年頃、織田信雄の奉行を勤める。矢部家定の同族と考えられている。
天保の四奉行の矢部駿河守
矢部彦五郎の子として1789年誕生の矢部駿河守(矢部定謙)(やべさだのり)の名が見られる。
御手先鉄砲頭、火附盗賊改加役、堺町奉行、大阪西町奉行、その後は勘定奉行と要職を歴任した。 矢部は大塩平八郎を起用するよう指示して飢饉対策を行い大阪の庶民を救ったとも記録がある。
1841年(天保12年)4月28日、江戸・南町奉行に就任。矢部駿河守の官位は従五位下であり、まさに政府高官といったところだ。
しかし、老中・水野忠邦寄りで町奉行の座に野心を持つ鳥居甲斐守は、でっち上げともいえる容疑を矢部駿河守にかけ、就任僅か8ヶ月後の12月21日、矢部駿河守は罷免・改易処分、桑名藩松平家にお預けとなった。
お預けは桑名藩にとっても一大事だったようで、桑名藩の記録では、矢部を含めて総勢97名の大行列で桑名に護送し、桑名城内に幽閉する御用屋敷を400坪の土地に新築した言う。矢部本人は10畳の座敷牢に入るものの寝転んだり、あぐらをかく事もなく、行儀正しく正座していたと記録にある。
その後、矢部は抗議からか自ら絶食して餓死する。時は1842年(天保13年)死亡(54歳)。
ただ、桑名藩の記録では餓死と幕府へ説明できなかったのか、寒気と熱気を催し、食が進まなくなり、藩の医師に見せ、薬も処方したが病死したとあるので面白い。
南町奉行のとき矢部駿河守は、北町奉行で有名な遠山の金さん(遠山左衛門尉)と並んで下情に通じ温情に厚いことで知られ、共に悪評高い老中・水野忠邦の天保の改革に対抗している。
ただし、この矢部彦五郎と矢部駿河守(矢部定謙)の子孫はどの矢部氏かなどは不明ですが、高級官僚として働いていることから、織田・豊臣・徳川に仕えた矢部氏の末柄と考えるのが自然か・・。
東久留米にいた旗本・矢部氏
もともと小山村で300石の地頭だった矢部藤九郎が、現在の東久留米辺りに移り、1592年8月神社を建てたと言う話が東久留米に残っている。
1592年と言うと1590年に小田原北条氏が滅亡して、徳川家康が関東を治めることになった後の話である。徳川家旗本として矢部氏が現在の東久留米を領していたことがわかるが、織田・豊臣に仕えた矢部氏の一族か?
小山村と言う名はこの時たくさんあり、どこの小山村かは確証が得られず、相模原市と町田市の小山と考えるには証拠が足りず、相模原市上矢部の矢部氏が相模原市小山にずっと住んでいたと言う事は断言できない。
それでは相模原の横山党矢部氏のその後は?
鎌倉時代1213年の和田合戦で和田氏に加担した横山党は和田氏と共に滅亡することになるが、この時横山一族で、相模原市矢部を領していた矢部良兼も、和田合戦で戦死したとされている。
八王子の横山庄は、執権・北条氏の息がかかる大江広元に恩賞として与えられた。
その旧横山党の領地がどうなったのかは不明だが、逆に不明なだけに、旧横山党領地のほとんどが大江広元の配下だったとも考えられる。
和田合戦で血筋が絶えたのか、帰農したのか、相模原の横山党矢部氏についてその後文献などに名が出ることはない。