津久井城と矢部氏の足跡 (3)  津久井城の開設者とされる津久井為行

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 津久井城の開設者とされる津久井為行

 津久井為行には、3人の息子がいたとされ、その名を矢部義郷、二宮義国、平塚為高と言う。

 まずは次男の二宮義国から検証する。
 1213年の和田合戦前の時代、八王子を中心に現在の相模原市も勢力下にしていた「武蔵七党・横山党」は三浦一族の「和田氏」と姻戚関係にあり、言い換えれば三浦一族とも親戚と言うことになるので、仲がよかったと推測できる。
 武蔵七党・西党の最大勢力である平山氏(日野市)は横山党の八王子と領地が近いということもあり、仲が良い。平山季重は、和田合戦(1213年)で横山党と共に和田氏に協力し死亡。しかし、子孫は領地安堵で戦国時代まで残る。和田合戦時の西党には二宮氏も所属し、平山氏と同様鎌倉に参じている。
 西党じたいは、多摩川流域の勢力が集まったものであり、二宮義国が神奈川県二宮に入ったのではなく、あきる野市二宮に館を構えたものと推測できる。
 ちなみに神奈川県の二宮は、古代からあった式内社川匂(かわわ)神社が相模国二ノ宮であったことから二宮と呼ぶ。(相模国一ノ宮は寒川神社)
 西党の二宮氏は和田合戦(1213年)に参じている点を踏まえて改めてを考えると、津久井為行の次男・津久井義国は、現在のあきる野市二宮に入り二宮義国と呼ばれるようになったと考えるのが妥当だろう。
 その後、南北朝時代の1356年、笛吹峠(山梨県北都留郡上野原町)の戦いにおいて、足利尊氏の8万の陣営に二宮近江守、二宮河内守、二宮但馬守、二宮能登守と二宮義国の子孫と思われる4名の名が出てくる。しかし、戦後の恩賞で、武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て移住してきた、大石信重が二宮館に住む。以後、二宮氏については不明。

 3男・平塚為高はなぜ「平塚」と呼ばれるようになったのか? 平塚館を検証すると、三浦三郎為高と言う人物が1220年平塚に館を構えと言う記録がある。
 現在の平塚市は高望王を祖とすると号する中村党の土屋宗遠が土屋周辺を、同じく高望王系である三浦党・三浦義実(中村宗平の女婿)が岡崎周辺(岡崎城)に入り岡崎四郎義実に、真田周辺(真田城)を支配していたのは三浦義実の子・左奈田義忠(与一)である。
 これらの事を考慮すると、平塚館を構えた三浦三郎為高は、名前からも津久井氏系の平塚為高と同一人物であり、平塚に入り平塚為高と呼ばれるようになったと考えられる。
 長男の矢部義郷に関しては、全く生い立ちや足跡(そくせき)はわからない。ただ「矢部」と称されていることから、恐らくは戸塚の上矢部又は矢部町に居住していたもの推測する。

 津久井為行=矢部為行の可能性を検証する

 三浦氏の家系図は何種類が確認できているが、津久井義行の弟で、津久井城を築城したと伝承がある津久井為行の人物名が「矢部為行(矢部太郎為行)」と記載されているものがある。
 津久井姓ではなく、なぜ矢部姓なのか?
 注目すべきは、横浜市戸塚区の上矢部と言う地区に「姥子社」と呼ばれる神社がある。
 矢部庄司為行(矢部為行)と言う人物が、上矢部の領主であり、その矢部庄司為行の死後、乳母が尼となって、墓のそばに庵(いおり)を建て、墓に花を供えていたと言い伝えられている。
 系図で見られる状況と、戸塚の伝承を考えると津久井為行は時代も合うことから矢部為行と同一人物である可能性が考えられる。

 相模原の津久井に三浦一族津久井氏は来なかった?

 津久井為行=矢部為行と言う可能性が高いことを上記でご説明したが、仮にその通りであった場合、津久井為行は横須賀の津久井から戸塚の矢部に知行地が変わったと言うことになる。
 その場合を考えてみると、津久井為行が相模原の津久井城を築城したとする説は、唯一、400年以上あとの世の江戸時代に作られた築井古城記碑に記載されている文章のみが根拠であり、津久井に三浦一族津久井氏系の墓も存在しない(確認されていない)ことから、津久井城は津久井為行が作った、相模原の津久井には三浦一族津久井氏系が知行した(移り住んだ)と言う説には、信憑性に大きな問題がある。
 もともと、三浦一族の支配が相模北部にまで及んでいたとは考えにくく、三浦一族津久井氏が勢力範囲を飛び越して、津久井城を築いたと言う説には無理がある。
 ただし、津久井氏が相模原市の津久井を一時的に「代官支配」したと言う可能性は残される。

 津久井氏系の秋葉氏

 1240年承久の乱の戦功により、秋葉重信(秋庭重信)が有漢郷(備中・松山)の地頭として赴任。後の松山城にあたる大松山に築城する。
 この1240年に登場する秋葉重信の先祖は、津久井氏と言う説がある。その理由を考えてみると、津久井為行の弟である津久井義光が、どうも「秋葉姓」で呼ばれたと考えられる経緯からきている。

 津久井義光(秋葉義光)以後の系図は-秋葉義方―秋葉義高と続いているが、秋葉重信に繋がるか確証を得るものはない。
 秋庭重信が承久の乱で活躍したものの、それまで名前が出ていないことを考えると、もしかしたら、直系の秋葉義方、秋葉義高あたりは討死し、その弟などが秋庭重信であったとも考えられる。
 
 津久井義光がなぜ秋葉義光と呼ばれるようになったのか? 
 津久井氏が津久井城に入ったと言う説で考えると、宮ケ瀬湖の東に秋葉山(現在の仏果山)がある。その近くの愛川町半原地区の北の守護神といわれ、後に韮尾根地区の守護神と言われた秋葉神社がある。津久井にほど近い韮尾根から南に見える山は、まさに秋葉山である。
 津久井に館を構えた津久井為行に付き添い、この韮尾根の地を領し、津久井から見るとも秋葉山がある方向だった為、秋葉氏と呼ばれたのか?と考えたこともあった。
 しかし、横浜市戸塚区に秋葉と言う地名が現存しており、秋葉町の隣は矢部町と、三浦一族の支配地と考えられることから、矢部の地から分かれて、隣の秋葉の地に住んだ為、秋葉氏となったと考えるほうが自然か・・。
 いずれにせよ、秋葉氏についてはもっとわからないことが大変多く、憶測にすぎない。

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コメント

    • 三郎右衛門
    • 2017年 5月 24日

    重信殿は何も書き残さなんだ。訳があったのじゃ。
    重信殿の出自についてはいろいろ憶測されて津久井氏ではないかというのが通説のようになっておるが、困ったもんじゃ。
    津久井氏でないことは調べてみればわかる。『戸塚郷土誌』の三浦系図には津久井氏が載っておるが、保村は建保乱和田方戦死、信村は寶治難宗家殉じゃ。重信殿が津久井なら手柄のあったことを書かぬはずがなかろう。津久井氏自身が重信殿は一門ではないと言っておる。
    重信殿は承久の乱の戦功で備中有漢の地頭になられたが、属していたのは北条義時殿じゃ。津久井は保村が建保乱和田方戦死じゃが三浦義村に従うことで許され、息子の信村は宝治難宗家殉じゃ。重信殿は三浦一族ではあるが三浦には属しておらぬ。これは重信殿が津久井氏でないことを示しておる。
    何?わしか?わしは重信殿家臣の裔じゃ。

  1. 2015年 9月 12日

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