相模陸軍造兵廠と相模陸軍造兵廠長

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 相模陸軍造兵廠

 昭和13年8月13日開所式。昭和15年6月1日に相模兵器製造所から相模陸軍造兵廠に昇格した。
 太平洋戦争時、旧帝国陸軍造兵廠は東京第一・東京第二・相模・名古屋・大阪・仁川・南満の7箇所にあった。
 その中の1つが相模陸軍造兵廠(現在のアメリカ在日陸軍相模総合補給廠)である。当時は現在の相模総合補給廠よりも巨大な敷地を有しており、地下工場もあるなど、1937年に完成した相模陸軍造兵廠は最新軍需工場として、東洋一の規模と言われた。第1製造所では戦車の生産、第2製造所では中口径砲弾が作られた。
 昭和18年末には11300名が働きボール盤や旋盤での作業が中心だったが、食糧難の為、野積場では畑を作り野菜も収穫していたようだ。

 ノモンハンでソ連陸軍の近代装備を前に大敗した旧帝国陸軍が、ドイツ機甲師団の電撃作戦の戦果をみて、陸上戦での「戦車」の重要性を認識し、開発・製造を始めた。
 しかし、工業力と資源に乏しい日本は航空機生産優先の軍需政策を採らざるを得ず、戦車の改良などは常に後手に回わってしまい、戦闘機のように高性能な戦車の開発は遅れることになる。しかし、相模陸軍造兵廠は、砲弾や97式中戦車チハ(写真)、98式6トン牽引車、1944年12月頃からは本土決戦の切り札として3式中戦車も生産開始した。

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 日本は当初中国大陸などでの戦車運用を想定。大陸で運用するには大量に戦車が必要な上、海上を戦車輸送する必要があり、輸送船に乗せても大丈夫な重量(約10トン程度)で大量生産可能なタイプの中戦車を生産するなど、装甲が厚くて防御力の高い重戦車を作ることができなかったが、1940年(昭和20年)三菱重工業丸子工場で完成した100トン重量戦車である大イ車(大型伊号車)を1量だけ試作した。
 この大イ車(大型伊号車)は、日本陸軍が対戦車戦闘を想定して、本格的に開発した四式中戦車の後継なのだ。
 主砲は105mmカノン砲1門、副砲に75mm砲1門、7.7mm重機関銃1丁の装備を予定。全長10m、幅4.2m、高さ4mと巨大な戦車で、乗員11人、前面装甲75mm。ドイツの有名なタイガーⅡ戦車の主砲は88mm砲なので、攻撃力はバツグンの戦車になるはずだった。
 この大イ車(大型伊号車)を1台試作し、試験走行を相模造兵廠で行った事は有名である。当時、原乙末生少将も試験走行に立ち会った。しかし、戦車は大きく重さもある。廠内試走路では直進すると次第にキャタピラが自重で土の地面に沈み、走行不能に。また旋回する際にも沈み、車体の底が地面につき、断続的な旋回しかできず、走行中に下部転輪が次々と脱落した。なお、土の上でダメならばコンクリートの舗装路ではと、硬いコンクリート路面でも走行テストをしたが、日本の標準国道の道路幅では、キャタピラが道路脇からはみ出る上に、コンクリートが割れてこれまた沈下。走行した後はことごとく当時最新のコンクリート道路が破壊されていたと言う。結局、実戦投入は難しいと判断されシートを架けられ相模造兵廠で保管。この1台だけ作られた100トン戦車も、終戦間近の1944年(昭和19年)にバーナーで寸断解体され設計図も焼却処分された。
 このほかにも、三菱重工業東京機器製作所・三菱下丸子工場で製作された120トン戦車(大型イ号車、オイ車、ミト車)の試作車1輌が、終戦直前に相模陸軍造兵廠に搬入され試験が行われた。その後、シートを被せた状態で保管し、分解して満州に送付予定の所で終戦を迎えた。終戦直後に目撃した相模陸軍造兵廠の工員によると、砲も取り外され、既に半分スクラップ状態であったと言う。

 1944年(昭和19年)に入ると満19歳で徴兵されることになる。また兵役法施行規則が改正され、満17歳以上の者から徴兵対象となり、満17才未満でも軍隊に志願が可能となる程戦局が悪化。
 工場の優秀な熟練工もしだいに兵役召集され、工場の要員も足りなくなり、7月7日サイパン島が玉砕するころには「決戦非常時措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」が施行され、陸軍造兵廠にも全国各地から学徒勤労動員が召集。2年間寮生活をし毎日生産に従事した。
 相模陸軍造兵廠でも工員の8割が徴用工、少年少女養成工、女子挺身隊、動員学徒であり終戦時には約3万人が働いていて、相模原各地の農家からも工員として徴用されていた。戦車の走行テストも学徒が行う状況。
 月産20台が目標だった97式中戦車チハ製造も、ついに15台を上回ることはなかった。

 風船爆弾を造る陸軍兵器学校の生徒や新潟県新発田などから来た女子挺身隊もおり、1日12時間労働、一週間ごとに夜勤と過酷な労働についた。しかし、資材不足などもあり作業が中断することもしばしばだったようだ。
 民間軍需工場ではなく陸軍直轄工場であることから、多少食料事情はよかったようだが、それでも毎日空腹だったと言う。

 大型バスも入れる巨大なトンネルの戦車壕(現在は撤去)があり、空襲警報が発令されると未完成の車両は退避壕に入り、労働者も防空壕に非難し、度々の警報で作業もはかどらなかったようだ。
 B-29の首都圏空襲の進入コースは天候などにより、富士山を目標に日本列島に入り、相模原上空を通過して行くコースもあった。しかし、度々の空襲警報が発令されても、実際に工場の上にB-29が来ないとしだい退避せずに作業を続けるようになったようだ。

 軍施設への給水が最優先の急務と工事を進めていた上水道は、資材や労働力不足の中、1945年(昭和20年)3月に完成し、相模原市域の一般住宅にも給水が開始されている点は特筆すべき事である。

 3月10日の東京大空襲は相模原からでも東の空が真っ赤に燃えてるのが見えたという。
 戦争末期には風船爆弾も相模造兵廠で生産していた。
 空襲で軍需工場の設備が破壊されるのを警戒して、軍需工場の一部機械は近くの学校の校舎や大きな建物などに分散させることにもなり、旭小学校でも教室や講堂の80%が陸軍に徴用され、講堂は相模造兵廠の機械が据え付けられ、子供たちが勉強する教室は、学校から農家の一室となり、各農家に分散して授業を受けた。
 アメリカ軍は、立川や茅ヶ崎などの軍需工場を空襲。また、相模原を通り越して、八王子市街地の空襲を行っていたが、相模原はアメリカ軍に重要視されていなかったのか? 攻撃予定前に終戦を迎えたのか? 比較的新しい設備の工場があったことから、占領後車両の修理などで使用する目的がすでにあったのか? 幸いにも相模造兵廠を含め相模原はB-29の爆撃などにあっていない。

 敷地内には当時近代的設備をもった造兵廠付属病院があった。その一部が現在相模更生病院として今でも医療活動をしているが、戦後でも医療を続けているのは全国の造兵廠付属病院のうち相模原だけと、当時の医療関係者の努力が伺い知れる。

 戦後、アメリカ占領軍の政策で、相模陸軍造兵廠にあった工作機械など2363台は、賠償品として中国・オランダ・フィリピンなどに渡った。2363台と言うと日本国内の軍需施設が賠償した約12%に当たる。

 相模陸軍造兵廠は戦前、橋本駅の横浜線車庫あたりから、矢部を通り越して、カルピス工場の辺りまでと、現在の規模より遥かに大きかった。淵野辺駅から線路を敷地内に引き、部品・物資の輸送などには鉄道が使用された。北側の境川をはさんで町田街道に面した門を正門として敷地内北部に事務所など管理機能を集中。戦後の米軍は、その後、機能した国道16号を使う都合上、西門を事実上の正門として使用している。

 町田市にある現在の尾根緑道はかつて「戦車道路」と呼ばれ、週1度は戦車の走行テストが実施された。また、いよいよアメリカ軍の東京侵攻が懸念されると、海沿いの水際防衛では艦砲射撃に耐えられない為、内陸に防衛陣地を築くことになり、この戦車道沿いの丘地形を生かして首都東京の第一防衛線とする計画も持ち上がった。実際アメリカ軍も九十九里浜よりも、川を渡河する回数が少ない相模湾上陸に上陸部隊の主力を集中させる作戦予定だったようだ。
 戦車道路は戦後にも、相模補給廠で修理されたアメリカ軍戦車などのテストコースにも使われていた。戦車道路は国の所有地であったが、現在は町田市が借りて尾根緑道として一部公園整備され、散歩道になっている。相模原の眺めが良い場所もあるので、是非1度訪れて欲しい。

 矢部駅は、戦後アメリカ人が横浜線で相模総合補給廠に行くのに、現在の矢部駅の辺りで運転手に命じて列車を度々臨時停車させ、線路から列車に乗り降りしていたことから、ダイヤが守れず、また大変危険な事もあり、昭和25年9月に臨時駅として相模仮乗降場(現在の矢部駅)が開業し、現在に至っている。その為、淵野辺駅と矢部駅は駅建設の計画性が感じられない近さで、急遽作られた矢部駅周辺はこれらの理由から駅前として発展していない。

 相模陸軍造兵廠長

 初代 小須田勝造 中将 (兼務) S15.8~S15.9
 砲兵将校から技術畑を歩んだ陸軍将校で陸軍兵器本部次長の時代に、一時的に廠長を兼務。後に、陸軍兵器本部長などを歴任し、S17.10の組織改正後には陸軍兵器行政本部長に勤めた。

 第2代 岡田資小将(在任中に中将) S15.9~S17.9 
 岡田資(おかだたすく)陸軍中将は、相模陸軍造兵廠長を努めたのち、日本初の戦車師団が編成されると第2戦車師団長(満州)に就任。その後、本土決戦に備え名古屋を守備する第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官で終戦を迎えた。
 岡田資が有名になったのは戦後だ。
 アメリカは東京以外の都市で名古屋ほど繰り返し爆撃した都市はない。アメリカ調査では21回(名古屋市調査では38回)爆撃し、そのうち6回は無差別爆撃であった。市街地の約24%が灰となり、死者は延べ8000人を超え、名古屋城も焼け落ちた。
 岡田資はその爆撃の際、撃ち落としたB-29から落下傘などで降下した搭乗員合計38名を正式な裁判なしに処刑した責任を問われ、戦後、B級戦犯として巣鴨プリズンに収監され、連合国による横浜裁判を受け、昭和24年9月17日絞首刑執行となった。
 戦勝国の論理で裁こうとする連合軍裁判では「国際法に違反する無差別爆撃(都市空爆)を行い、非戦闘員を殺した者のみ処刑した」と、当時の日本人が言えなかった無差別爆撃の違法性を堂々と主張。その一方では部下は命令に従っただけだと部下19名の減刑を願い、死刑を宣告されていた部下も釈放されるなど、部下全員の命を救い「最後の武人」と称された。
 ちなみに同じ日本を守備した司令官でも、西部軍管区軍司令官は「私は知らない。部下がやった。」と主張し、司令官以下9名の死刑が確定するなど、戦犯約1000人が死刑判決を受けている。
 この裁判の模様は2008年に「【PR】明日への遺言 特別版 [DVD]
」と言う映画が公開された。
 S17.9~S17.10の間、廠長は欠員。

 第3代 原乙未生陸軍小将 (在任中に中将) S17.10~S20.4 
 原乙未生(はらとみお)中将は、まだ国産自動車などなく、技術力が低い中、日本で始めての国産戦車の設計・開発に携わり「日本戦車の父」と呼ばれる。戦車同士が戦う戦闘が地上戦の主な戦い方になる事を予期し、日本が想定していた古い戦闘手段(歩兵・騎兵中心)から戦車中心にすることを提案したが、旧帝国陸軍内では戦車は歩兵の支援と位置づけられ、結果的に原乙未生が考えていた陸上戦で理想的な戦車は日本では作られなかった。しかし、歩兵支援目的でも当時としては優秀な軽戦車、中戦車を開発したことでその名を知られ、第4技術研究所長を兼務し相模原でも製造を指揮した。

 第4代 土岐鉾治陸軍小将 (兼務) S20.4~
 よくわからないが、最後の相模陸軍造兵廠長。第4技術研究所長を兼務していた模様。

 終戦時将校は下記の通り

 相模陸軍造兵廠長 土岐鉾治 少将 (30期)
 庶務課長 阿部安理 大佐 (27期)
 作業課長 土岐鉾治 少将 (30期)
 会計課長 山崎 信 主計大佐
 第1製造所長 稲葉 哲 中佐 (31期)
 第2製造所長 那須倫彦 技術中佐

 → 相模原周辺に墜落したアメリカ軍航空機など

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