はじめに
相模原には 旧石器時代の小保戸遺跡(約2万3000年前)、田名向原遺跡(約2万500年前)や、縄文時代中期の勝坂遺跡(勝坂式土器が出土、約5000年前)など、古くから日本に住んだ人々の生活跡が発見されています。
その後、稲作が入った弥生時代の遺跡は、余り多くは見られませんが、古墳時代に入ると、相模原の有力者と考えられる人物の古墳も出現しました。
このページではその時代から先にあたる相模原の古墳について考えてみます。
当麻谷原古墳(たいまたにはらこふん)
大化の改新直後の西暦650年~700年頃に作られたと考えられている横穴式石室を持つ「小円墳」で、周囲には14基の古墳がある古墳群となっている。現在は、古墳の大半が土地改良などで荒らされ、1号墳のみが相模原ポンプ場内に保存されている。
1号墳は直径約18mで石室入口は南にある。奥壁には大きな岩が2個を積み重ね、両側壁には持ち送り状に石が積まれ、底面には相模川の河川敷から採取したと考えられる河原の石が平らに敷かれている。
墳墓内からは首飾り(水晶製切子玉、きりこだま)、耳飾り(金環、きんかん)、鉄鏃(てつぞく)などが出土している。
住所は相模原市当麻140 (相模原ポンプ場内に保存)
当麻東原古墳(たいまあずまはらこふん)
こちらも大化の改新前後の西暦600年~700年頃にできたと考えられる横穴式石室を持つ「円墳」。
直径約16m、高さ約3mで、相模川の河川敷の石と考えられる「河原の石」を積み上げられて作られており、古墳の周囲には幅約2mの堀が巡られていた。
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石室からは馬具や装飾品など約400点が出土。地元では「馬塚」(うまづか)、「名馬塚」(めいばつか)などと呼ばれていた。
相模原市当麻1440-2 当麻東原公園(復元保存)
古墳から見る古代の相模原
古墳には大きく分けて、ヤマト政権の天皇や高級官僚(役人)など「国の実力者」の古墳と、地元豪族や国から地方に派遣された権力者など「地方の実力者」の古墳の2つに分かれると小生は考えております。
古墳時代には中央(ヤマト政権)の権力で地方も治めようとした為、中央から各地に地方行政を担当する役人が派遣されて、その地ら住み付き治めたと考えられておりますが、相模国の場合、前方後円墳が多数見つかっている「海老名」が、相模国行政の中心地であった事がほぼ間違えありません。
海老名の秋葉山古墳群(国指定史跡)では前方後円墳が3基、方墳1基、墳形未確定2基の計6基が発見されており、ヤマト政権が近畿に造営した古墳と、形状や特徴が一致します。
海老名市の調査では、日本を統一したヤマト政権が誕生した頃=弥生時代末期~古墳時代前期(西暦300年頃)に古墳ができたとされ、古墳としては全国的にも大変古い時代の古墳が海老名にあると言うことになり、ヤマト政権誕生の初期の頃から中央から役人が相模に派遣されていたと考えられます。
また、海老名付近では相模川を挟んで、他にも古墳が多数確認されています。
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相模原市内で発見されている古墳はいずれも「円墳」などで、出土品からも西暦700年頃と古墳時代後期のものと推定され、海老名に出来た古墳よりはあとの時代のものです。
その為、相模原のその地で実力を持った地元豪族が築いた古墳だと考えるのが正しいと存じます。
しかし、海老名の古墳同様、相模川流域で発見されていることから、当時から相模川を使用した交通(運送)が少なくともあり、お米が取れる相模川沿いの低地では人々の生活があったのでしょう。
もともと当麻の近くには、相模川流域に田名向原遺跡(約2万500年前)が発見されており、大変古い時代から人々が生活していました。
そして、当麻の地は、その後、無量光寺が開祖するなど、戦国時代(1590年)頃まで、相模原方面の中心地的な役割を持ち、長い間発展することになったのです。