陸軍士官学校
昭和12年10月、旧日本陸軍士官学校の陸上部門が市ヶ谷から座間に1300名もの生徒が移転してきた。(航空部門は所沢に移転)
昭和12年12月の第50期生卒業式に昭和天皇陛下が行幸され、この時、この地を「相武台」と命名された。
また、町田から相武台の道路は、曲がりくねった道幅3m程度の狭い砂利道だったが、昭和天皇が士官学校に来ると言うことで、急遽拡幅され、当時としてはまだ大変珍しい全面コンクリート舗装となった。
※簡易舗装だったとの情報も寄せられております。詳しくはコメント欄をご覧願います。
この、天皇陛下の御為に作られた新しい道路は、現在の県道51号町田厚木線(主要地方道町田厚木線)で、今でも「行幸道路」と地元で呼ばれている。昭和天皇は町田駅までお召し列車で来て、自動車に乗り換えて陸軍士官学校を訪れたようだ。
現在の日本でも天皇陛下がお越しになると言うことで新しい道路を作ることがあり、今も昔も変わらない。
なお、陸軍士官学校があった場所は、在日アメリカ陸軍司令部があり「キャンプ座間」(座間キャンプ)となっている。
2006年の米軍再編計画ではアメリカ陸軍第一軍団司令部が移転して来る事が決定。
陸軍士官学校相武台演習場
麻溝台・新磯野の入植地は、現在北里大学、麻溝台工業団地、県公社相武台団地などになっている。米軍座間小銃射撃場(1969年返還) は県立相模原公園。
陸軍兵器学校
昭和13年8月に第1期工事完成。
戦争末期には学生4000人、軍属1000人が収容されていた。
淵野辺駅から続く「並木通り」は、陸軍兵器学校本部に行く為に新しく作られた道路だった。
正門は現在の麻布大学の場所。
陸軍機甲整備学校
昭和18年以降に移転したと考えられる。
米軍キャンプ淵野辺(1974年返還)であったが、淵野辺公園、宇宙科学研究本部、県立弥栄東・西高校、などになっている。
相模原住宅地区
旧日本陸軍電信第1連隊が昭和14年1月13日に中野から移転していた。これら 陸軍電信第1連隊、陸軍通信学校、相武台陸軍病院の用地買収は昭和12年8月から始められたが、何月何日までに印鑑持参で集合せよと命令があり、行って見ると周囲には憲兵が立ち「軍用地として用地買収するから承諾せよ」と威圧的なものであった。
陸軍電信第1連隊は、昭和16年11月15日付けで第25軍山下師団の指揮下に入り、残存将兵は通称:東部第88部隊と呼ばれた。
陸軍通信学校
昭和13年11月第1期工事完成。
現在の相模女子大の場所であり、小田急電鉄では江ノ島線と小田原線が分岐していた地点に昭和13年4月「通信学校駅」を新設した。現在の相模大野駅だ。
国立相模原病院
昭和13年4月、臨時東京第3陸軍病院(いわゆる野戦病院)として現在の場所に設立。
臨時の野戦病院規格ではあったが、テントなどで診察する訳ではなく、3ヶ月と言う短期間で、バラック建物を建てた病院。
しかも、規模は大病院以上であり、真新しい病棟だけで54棟・2767床もある、陸軍直轄病院である 5箇所の1つで、東日本最大の陸軍病院であった。
当時は日本全国で最大級の2767床。最大収容患者数は計画では5000名程度だったが、6000名を超えたこともあったが、ほとんどが戦地からの傷病兵だった。
天皇が唯一お見舞いに訪れた病院でも知られ、病院職員は2200名前後いたが、看護婦は5~6名しかいなかったと言う。
看護婦が少ないと言うのは、重症患者向け病院では無く、日常生活は自分で可能な患者 = リハビリを目的とした病院であったからだ。
よって、運動場では毎日ラジオ体操が行われ、娯楽として演芸場や相撲場・プールなどもあり、職業訓練も行われ、退院時には原隊復帰か、民間企業などへ就職して行ったと言う。
敷地は、現在の国立相模原病院の3倍あった。
相武台陸軍病院
昭和15年3月開設。陸軍直轄病院より1ランク下になる陸軍一等病院で、全国にある4箇所ある陸軍一等病院の1つ。300床。当初は原町田陸軍病院と言われたが、地元の要望により昭和16年には相模原陸軍病院と改称されていた。収容人員は終始250名程度だった。
戦後は米陸軍医療センター(1981年返還)となり、現在、グリーンホール相模大野、外務省研修所、県立相模大野高校、住宅団地が建つ。
その他
現在の相模原公園や北里大学の敷地は、陸軍士官学校に併設された陸軍練兵場だった。特に相模原公園の窪み(崖)は、機関銃や歩兵銃の発射訓練に使用された。
相模原駅は小田急線の駅名だったが、軍都計画でその中心となる駅を国鉄の横浜線に設置することになり,その駅名を相模原駅(現在の横浜線相模原駅)と国策で決定。
小田急線の相模原駅はやむなく「小田急相模原」と改称した。
余談 こどもの国
神奈川県に子供の頃からお住まいの方なら、誰もが訪れたことがあるであろう「こどもの国」は、旧日本陸軍の日本最大規模を誇る弾薬製造・貯蔵施設であった。東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・田奈填薬所と言う。こどもの国にあるトンネルなども、その当時に作られた名残りである。
1938年に国家総動員法により全戸立ち退き命令。1941年から使用開始したが、工事に携わった1000人のうち、900人は朝鮮人であり、強制労働ではなかったようだが、現存する数々の貯蔵庫も素掘りしたとの事で過酷な労働だったようだ。
終戦間際には、相模湾に上陸すると予想されたアメリカ軍を迎え撃つ為の首都防衛拠点として更に防御を強固とした。
現在もこどもの国園内には、弾薬貯蔵庫跡が多数あり、訪れると誰でもわかる。
戦後はアメリカ軍に接収され、完成弾の貯蔵庫となったが、その後機能は池子弾薬庫(逗子)に移され、使われていなかったところを今上天皇(平成の天皇陛下)の結婚記念事業としてこどもの国となり開園した。
横浜線・長津田駅からこどもの国に繋がる鉄道「こどもの国線」は、ご想像の通り、弾薬輸送の為に作られた線路である。
愛川町の内陸工業団地は、戦時中、陸軍の相模陸軍飛行場として、滑走路があった。
参考
学徒勤労動員HP、横浜線の昔HP、相模原の歴史(座間美都治著)
※賜りましたコメントより随時修正も加えております。情報ありがとうございます。