風船爆弾は登戸陸軍研究所で開発された。全部を相模原で生産した訳ではなく、日本全国津々浦々で生産され、東京は日本劇場、東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館など天井が高い演劇場でも女子挺身隊などにより生産された。
和紙をコンニャク糊で張り合わせた直径約10mの大きな風船に200キロ焼夷弾を積み、自動的に高度を調節する装置もつけて、水素を充填させたのが風船爆弾である。
茨城や千葉などの海岸から飛ばし、偏西風に乗れば時速200kmの速度で飛び、太平洋を2~3日で横断したと言う。
世界初の長距離大陸間移動兵器となったが、なにぶん風任せの兵器の為、9000個を放つもののアメリカ本土に到達したのは約1000個(300とする説も有)と戦果は奮わず、アメリカの被害と言えば送電線に風船が引っ掛かる、山火事になる程度の比較的軽微なものだった。
死者としては、オレゴン州で女性1人、子供5人がピクニック中に木に引っかかっている爆弾部分を触り、爆発して死亡した例があり、第2次世界大戦中、アメリカ本土で唯一犠牲者が出た例となった。
日本でも何十万人と多くの子供が空襲などで犠牲となったが、少なくともアメリカでも子供に犠牲者が出たのは本当に悲しいことであり、謹んで哀悼の意を表したい。
なお、日本でも製造中に爆弾を誤って爆発させてしまったなどの事故により、日本人6名が殉職している。
コンニャクは全国から徴収され、食卓からコンニャクが消えたが、アメリカ軍は糊(接着剤)に何が使われているのか終戦までわからなかったと言う。