相模原 軍都計画

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 相模原には現在アメリカ軍施設などがありますが、そのアメリカ軍施設がなぜできたのかを辿ると、太平洋戦争前に相模原を「軍都」とすべく計画があったことがわかります。
 「星が丘」という地名は陸軍徽章の★に由来するとされ、戦前は陸軍の高官が1戸建てに住む地域でした。そんな相模原にできた軍施設を中心に、相模原の戦争関係をご紹介致します。

 突然の呼び出し

 相模原は首都・東京から近く地価の安い平坦地が広がっていた。
 1936年(昭和11年)6月27日、旧日本陸軍第1師団より呼び出しがあり、座間村、新磯村、大野村、麻溝村の各村長は、座間村役場に集合した。そして、陸軍経理部から来た川上三等主計正と高山一等主計と会議が開催される。
 「陸軍士官学校と練兵場の用地を買収したいのでよろしく」と言う内容だった。
 各村長はあまりにも突然の話なので驚き、地主とも相談したいと述べその日は解散した。
 大野村と座間村は僅かな土地を買収されるだけで、軍の学校が来れば地域は発展する計算もあり、さほど問題はなかった。
 しかし、新磯村と麻溝村は、耕作地である台地の大半が練兵場に取られてしまうことになり、農民の死活問題でもある為、大騒ぎになった。
 当時の日本は、さかのぼること3年前の1933年(昭和8年)に国際連盟脱退するなど、政情は緊迫しており、強くは反対できないと地主総会の結果、できれば候補地を変更して欲しいと言う陳情をすることになった。
 そして、陸軍から高山一等主計が麻溝村を訪れ、地主と直接の話し合いが行われた。人家に接する用地を少し除外するなどの配慮もあり、村人は「非常時だけに失業もやむなし」と、最後には「天皇陛下万歳!」を三唱して用地買収が決定した。
 新磯村でも、同様に高山一等主計が訪れて話し合いが持たれ、用地譲歩も麻溝村同様にあったが、村民は失業の賠償などで納得せず、陸軍側は「強制収用も辞さない」と宣言し、その日は閉会した。
 村長が反対派の各戸を回り、最後には上溝警察署の部長まで説得に出てきたので、最終的には村に一任すると言うことになり買収に応じることになった。

 相模原の軍都計画

 1930年後半以降、陸軍士官学校をはじめとする陸軍施設があいついで移転・開設された。
 この頃まで、養蚕を主とした貧しい農村から一転、軍事都市へ急速に発展することになる。神奈川県が中心となって区画整理事業に着手した。
 1939年(昭和14年)の相模原都市建設区画整理事業では、当時の相原村(小山・清兵衛新田・橋本)、大野村(上矢部・矢部新田・淵野辺)、上溝町、大沢村(下九沢)にまたがる535万坪(約17.7㎡)の区域に10万人が住む街を想定した壮大な軍都計画が行われた。
 現在の市役所通りになる、相模造兵廠西門と上溝とを結ぶ街路を縦の軸とし、これと直交する幅の広い街路を横の軸として計画的に街路が配置され、両軸となる街路の交差点付近には中央公園(現在の市役所付近)が計画された。区域内は住居地域、商業地域、工業地域(軍事施設を含む)に分けられ、推計人口10万のうち小学児童を約14000人と想定し小学校を14校、中等学校が3校整備される計画だった。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発すると、資金難・物資不足から整備工事は進まなくなり、幹線街路網の整備が進んだところで敗戦を迎えた。一時中断された区画整理事業は戦後も継続されて1950年(昭和25年)に完了し、相模原市役所一帯の区画ができあがった。

 横浜線が橋本駅から町田駅まで線路が一直線なのは、大正時代に広軌レールでの列車試験走行などに使用した、列車のテスト線も兼ねたからである。
 この大正時代からテストした広軌レールが、のちの高速鉄道として新幹線の技術で採用されることになったのは言うまでもない。横浜線は、昭和16年4月には全線電化された。
 また、横浜から途中まで日本陸軍が作った国道16号が小山から鵜野森までほぼ直線で、尚且つ清新から淵野辺まで「広く」取っていたのは、いざと言うとき道路を航空機の「滑走路」として活用する目的もあった。(実際には終戦まで滑走路としては活用されなかった。)
 ちなみに昭和18年頃道路を走る路線バスは、ガソリン不足から木炭車となり、馬力が弱く、津久井方面などの急な坂は登れず、乗客全員でバスを押す事も日常だった。
 相模ダム(相模湖)は、横須賀や相模原の軍需工場への電力供給の為、戦前1938年に着工。戦争中は人材・資材不足などもあり中断し、1947年(昭和22年)に完成した。

  陸軍士官学校 → 座間キャンプ(在日アメリカ陸軍司令部など)
  相模陸軍造兵廠 → 在日アメリカ陸軍相模原補給廠
  陸軍兵器学校 → 麻布大学など
  陸軍航空技術飛行機速度検定所 → 矢部新田と淵野辺
  陸軍電信第1連隊(東部第88部隊) → 現米軍相模原住宅地区
  臨時東京第3陸軍病院(野戦病院) → 独立行政法人国立病院機構相模原病院
  陸軍通信学校 → 相模女子大など
  相武台陸軍病院 → アメリカ軍医療センター(返還) → グリーンホール相模大野など
  陸軍機甲整備学校 → キャンプ淵野辺(返還)→淵野辺公園など
  原町田憲兵分隊 → 淵野辺防災倉庫
  陸軍士官学校相武台演習場 → 北里大学、麻溝台工業団地、県公社相武台団地など
   米軍座間小銃射撃場 → 県立相模原公園
  陸軍第4技術研究所 → 矢部 ※終戦間際に完成
  陸軍航空技術研究所淵野辺飛行速度検定所 → 矢部新田34番地
  陸軍航空技術研究所上矢部飛行速度検定所 → 淵野辺?
  相模原集団住宅(造兵廠工員住宅) → 星が丘

 → 相模陸軍造兵廠 に続く

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