鶴間
徳川家旗本の大岡義成(大岡吉重郎義成)(?~1598年)が上鶴間360石のうち300石で入る。残りの60石は徳川家直轄地。大岡氏は鶴間以外は知行しておらず、鶴間が本貫(本領)である。
のち330石に加増された大岡氏は「矢口」を中心に江戸末期まで上鶴間を知行した。現在でも上鶴間に墓碑が残っている。
大岡氏は、三河発祥の大岡氏一族と考えられ、徳川家譜代の家臣であると考えられる。そうであれば、町奉行で知られる大岡越前守とも先祖は同じと考えられる。
また、1625年からは長谷川正成(長谷川筑後守正成)にも鶴間の一部与えられ、大岡氏と二給になった。
長谷川氏は駿河小川(焼津市)の土豪で「長谷川長者」と呼ばれていた。
長谷川正成は今川義元→徳川家康に仕えた駿河・小川城主・長谷川正長の長男。父・長谷川正長は三方原の戦いで武田勢に討たれた。その後、長谷川正成は13歳で徳川家康の近習となり、高禄の旗本に昇進し、海老名の門沢橋村を本貫地として合計1751石となった訳である。なお、この長谷川氏の子孫には「鬼平犯科帳」の平蔵もいる。
なお、長谷川正成は徳川家康の影武者であったとも言われている。