下九沢
1698年からは、佐野勝由(佐野信濃守勝由)と、加藤明教(加藤三左衛門明教)の2人が下九沢を分割知行して幕末に至った。
加藤氏は、書院番を勤め、所領は下野国都賀郡内の6村が中心で、相模国では4村のうち、1つがこの下九沢52石であった。加藤氏が知行したと考えられる鳩川沿いは竹薮があり、毎年江戸城内の暮れの掃除道具「竹箒(たけぼうき)」にと、下九沢の竹を献上した為「やぶ加藤」と呼ばれていたようだ。
ちなみに、この加藤明教(加藤三左衛門明教)は、豊臣秀吉・徳川家康に仕え活躍した加藤嘉明の子孫の分家と考えられる。
佐野氏は下九沢では37石であったが、合計3000石の旗本で、佐野勝由の娘は松平資俊(本庄資俊)の正室となっている。
松平資俊(本庄資俊)の父・本庄宗資の姉は、のちに徳川綱吉の生母となった桂昌院。父・本庄宗資は800石程度の旗本であったが、あれよあれよと加増され、下野・足利藩初代藩主で譜代大名となり、のち常陸・笠間藩40000石になった。
その本庄宗資の2男である松平資俊(本庄資俊)の正室として佐野勝由の娘が入っていた訳だが、松平資俊(本庄資俊)は笠間藩2代藩主を継ぎ、70000石で遠江・浜松藩初代藩主になった大名であり、1705年3月23日に第5代将軍・徳川綱吉より松平姓を与えられた名家である。
ちなみに浜松藩の2代藩主には佐野勝由の2男が養子に入り松平資訓として藩主を継いでいる。
なお、知行割の担当者であった内藤清成や青山忠成や、佐野勝由・加藤明教らは江戸に屋敷があり、相模原には住んでいない。
上九沢
甲斐・武田氏の末孫と称する笹野氏が名主であり、その分家から名僧・南山古梁(なんざんこりょう)が出た。南山古梁は、仙台藩伊達氏の菩提寺である瑞鳳寺(ずいほうじ)の14代住職までなった。
笹野家の長屋門が相模原市登録有形文化財として保護されている。