豊臣秀吉が小田原攻めをした時の事です。
佐藤豊成(佐藤伝左衛門豊成、佐藤傳左衛門)は、津久井衆の井上源三郎と共に、1590年4月17日、白根の戦い(白根合戦)※伊勢原市で戦功があり、津久井城主・内藤綱秀から感状を受けています。
北条氏直が豊臣秀吉に降伏すると、佐藤豊成(佐藤伝左衛門豊成)は相模川を下る形で、須賀湊(平塚漁港)の市井に移り住んだようです。
平塚市にある乗蓮寺には、津久井城主だったと考えられる、内藤大和守(内藤景豊)の供養塔があり、佐藤豊成(佐藤伝左衛門豊成)の子孫が、江戸時代に入ってから建立したものと推定されています。
また、乗蓮寺の山門は、佐藤邸の裏門を移築したとも言われているようです。
佐藤豊成(佐藤伝左衛門豊成)の子の名は、伊瀬屋市良右衛門と言います。
なお、佐藤姓はご承知の通り、藤原氏の家来でして、藤原家を補佐するので佐藤と呼ばれたのが始まりです。
源平合戦で功績を挙げて、鎌倉幕府に仕えると各地の守護地頭に任ぜられ、その時、東北から関東へ多く移住しています。
北条氏照配下として八王子城で前田利家・上杉景勝・真田昌幸・真田幸村らと戦かった北条家の家臣にも、佐藤と言う武将は3名討死しており、当然、鉢形城主・北条氏邦の家臣にも佐藤と称する武将は何名もいたと推測されます。
以上のことを踏まえて、ぽん太さまより、ご質問を賜りました、佐藤豊成に関する4項目のご質問にご回答申し上げます。
(1)相模国に他に候補となるような戦国期から佐藤姓が多い拠点のような場所はありますでしょうか?
残念ながら、相模も佐藤さんが多い地区は多数ありますので、その線からルーツを辿るのは非常に難しいと存じます。
(2)串川の白山神社があり、現在佐藤姓が神社周辺に多く住んでおられますが、串川は戦国期から佐藤姓の拠点なのでしょうか?
現在、佐藤さんが多いようですが、1559年時点での津久井36人衆の名簿には佐藤と言う武士は1名もおりません。
(3)佐藤豊成や周辺の佐藤姓の出自が知りたいのですが、何か相模原の図書館等で調べられる辞典や資料は存在しますでしょうか?
思い当たる図書館の図書をざっと見てみましたが、佐藤氏に関する特別な記述はみつけられませんでした。
ただ、このご質問は、図書館でご相談された方が、より専門的な事がわかるかも知れません。
図書館は調べもののお手伝もしてくれるサービスがありますので、お勧め致します。
(4)佐藤豊成の治めた土地はどちらでしょうか?
私の推測ですと、津久井の青野原村だと存じます。
それから考えますと、佐藤さんと言う名が村民の40%もいる山梨県の道志村と関連があるのかも知れませんが、調べるのは困難です。
(5)白山神社の由緒
長竹の白山神社が佐藤豊成に関連するのかは不明で、由緒もわかりませんが、今度機会がありましたら、現地を訪れて見ます。
その時、何か分かりましたら、加筆させて頂きます。
以上、お役に立てたかどうか、わかりませんが、コメント欄より賜りましたご回答に代えさせて頂きます。