石楯尾神社のミステリー・謎に迫る 相模原にある歴史ある神社

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927年(延長5年)にまとめられた「延喜式神名帳」(えんぎしきじんみょうちょう)の巻九・十に記載されている相模国の延喜式内社13社の内の1社に「高座郡石楯尾神社」とある。

延喜式神名帳に記載された神社は、延喜式内社または式内社といい、社格の高い神社と言うことで、相模国の場合の大社1は、もちろん寒川神社となっている。
その他に13ある小社のうち、相模原近郊だと神奈川県海老名市上郷の「有鹿神社」などが見受けられる。


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そのなかで1社が石楯尾神社(いわたておじんじゃ)ということなのだが、現在、神奈川県には石楯尾と名の付く神社が、少なくとも4社、他にも現在諏訪神社となっているが、かつては石楯尾神社だったのではと言われている社が3社あり、本物の石楯尾神社はどれだったのか?と言うミステリーになっている。

いずれにせよ、もっとも有力視されている2つの石楯尾神社は、いずれも相模原市内にある。




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石楯尾神社(相模原市緑区名倉)

一番注目を浴びているのは、神奈川県相模原市緑区名倉に鎮座する石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)だ。
名倉の権現さまとも呼ばれている、かなり昔からあった神社である。

石楯尾神社

創建年代は不明だが、文献には857年に記載されているのが見受けられる、1569年に武田信玄が小田原城を攻めた際の帰りとなる、三増峠の戦いの際にも戦火にあったようだ。

戦国時代の甲州街道からほど近い場所にある神社であり、甲陽軍鑑などではこの時、野営した武田勢は寒さをしのぐために、上野原の神社の木材を焼いたとある。
この時ばかりは、神仏を敬い軍規を厳しくしていた武田信玄も黙認したと三増峠の戦いの記録にあるが、この伝承による被害を受けたのが、この石楯尾神社であったのかも知れない。
この時の火災で、古記録なども焼失したとある。

旧来は、相模川(桂川)の対岸にあった「エボシ岩」を崇拝していたのだが、明治に中央本線が敷設された際には、撤去されてしまったと言う。
また、その相模川も現在は相模湖の水域となっており、満水ともなるとかつての渓谷美も損なわれている。

御祭神は石楯尾大神(いしだておのおおかみ)の他、日本武尊(やまとたけるのみこと)も祀られているが、ヤマトタケルが東征した際に、この石楯尾神社に寄ったとの話も伝わる。

石楯尾神社

普段は余り訪れる人もいないひっそりとした神社なのだが、その歴史は計り知れない深みがある。

石楯尾神社(相模原市緑区佐野川)

佐野川の石楯尾神社(いわたておじんじゃ)も延喜式内社に記載された石楯尾神社ではないかとする説がある。

110年に日本武尊(ヤマトタケル)が東征した際に、天磐楯を東国鎮護のためここに鎮め、神武天皇を祀ったのが始まりとされている。

764年に藤原仲麻呂の乱を鎮めた功で、高座・大住・鮎川・多摩・都留の五郡を賜ったとされる坂上石楯(石村石楯)の庇護があったようで、やはり巨石を祀っていた。
坂上石楯(石村石楯)の本拠は三河なので、実際には、一族の誰かが上野原の辺りに入ったのだろう。


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また、名倉の石楯尾神社同様に、1569年の三増峠の戦いのあと、武田勢に焼かれたとあるが、佐野川の石楯尾神社は甲州街道からかなり入ったところにある為、名倉の石楯尾神社が被害を受けた伝承が、誤って伝わったのではないだろうか?
更に、坂上石楯の庇護の庇護と言うのも、名倉の石楯尾神社であった可能性も捨てきれない。

いずれにせよ、歴史はありそうで、境内は以外にも広い佐野川の石楯尾神社である。

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