1213年和田合戦で三浦一族和田氏に加担した横山党は和田氏と共に滅亡することになる。
横山党の旧領地である横山庄(現在の八王子市周辺)は、和田合戦の恩賞として、執権・北条氏の息がかかる検非違使・大江広元(おおえのひろもと)(1148年~1225年)に与えられ、以後大江一族が支配した。
大江広元は1189年、源頼朝の奥州征伐で功があり、羽前国長井郷を与えられて、大江広元の次男は長井姓を称していた。その、長井時廣(大江時広、長井左衛門、長井時広、大江祝弘)が横山庄を支配したと言う説がある。一説には片倉城に居住したとも言う。
毛利荘(現在の厚木市周辺から津久井方面)も和田合戦後、大江広元が領していたようで、4男。大江季光が受け継ぎ知行すると、毛利姓を称して毛利季光となった。この毛利氏が戦国時代の大名、毛利元就に繋がる。
当時、毛利庄の中心地は津久井寄りの飯山郷附近と考えられる。しかし、和田合戦より前に津久井まで手が伸びていたとは考えにくい。
理由としては、横山党一族が西は山梨県都留・大月・上野原、そして相模原・海老名・厚木市荻野まで進出していた事から、地理・交通的にも、やはり津久井方面は横山党の支配下だったと考えるのが自然である。
筆者は突拍子もないことを考えた。そのパート1.
文献では三浦氏に嫁を出した記録はないが、横山党本家の横山時重(藍原時重)の娘が、三浦一族の和田義盛に嫁いでいる。それだけではなく、横山党は他にも「娘」を近隣の秩父党や小山田氏、梶原氏など、近隣諸豪に嫁がせ、多数の周辺御家人と姻戚関係を結んでいた。
もしかしたら、文献には載っていなくても、三浦氏直系にも娘を嫁がせていたかも知れない。この時代、いわゆる正室ではなく側室になってしまうと、文献に乗らないケースが多々ある。
当時、娘を嫁に出す際にはどうも、娘が嫁ぎ先でお金に困らないように「親の領地の一部」を金銭代わりに持参していたようだ。
その為、確証はないが、三浦氏に横山党の娘が嫁いだと仮定すると、津久井はその三浦一族に嫁いだ娘が、三浦氏に持参した領地ではないかとも推測できる。
その娘が亡くなると、そのまま嫁ぎ先の領地になることが多いようで、三浦一族の津久井為行が領することになり、津久井と呼ばれるようになったとも考えられる。
また横須賀の津久井と、相模原の津久井と両方を津久井氏が領していてもおかしくなく、相模原の津久井には代官を配置したとすれば、津久井氏の墓が横須賀に集中しても納得できる。
実際、梶原景時は横山党から妻を迎え、元八王子村に所領を追加している。
ただし、和田合戦前には拠点に防御性の高い城を築く必要性があまりない時代で、津久井城がこの頃築城されたのかは別問題である。
筆者は突拍子もないことを考えた。そのパート2.
津久井が横山党から大江広元の支配地に変わった際に、津久井城ができたと考えられるとこのような仮説ができる。
大江一族は鎌倉幕府でも要職についていたことから、領地経営は代官に任せることが多く、大江一族の配下のものが実際に代官として各知行地に赴き、経営していたとも考えられる。
毛利季光(1202年~1247年)の妻は三浦義村(?~1239年)の娘で、三浦泰村(1184年~1247年)の妹である。 年齢からも1213年和田合戦の後に、正室として迎えたのであろう。
大江広元の次男・長井時廣が、山城と言える片倉城が拠点とされる為、山城の流行、兄弟での流行、常陸国などを見ても、世間の流行として、毛利季光も宝ヶ峰の山頂(現在の津久井城)を拠点とした考えられる。いずれにしても、普段の住まいは山腹や山麓で、山頂ではなかっただろう。
その宝ヶ峰の守り(津久井)の代官に、親戚筋にあたる三浦一族津久井氏系より人材を登用し、津久井氏が入ったため、地名が津久井になった考えるのは筆者だけであろうか?
また、親戚関係を上げると、三浦一族津久井氏は、横山党とも親戚関係であった為、横山党が支配していた頃から津久井氏が入っていたとも考えることができる。
その為、津久井城築城が津久井為行らだとは考えにくいが、三浦一族津久井氏の家臣などが、親戚になる横山党や毛利季光の代官として津久井地方に赴任したと考えても良いのかも知れない。
それが長い年月がたち、三浦一族津久井氏出身の代官が赴任したものが、津久井為行らの名に変わってしまっても、なんらおかしくはない。
和田合戦後の三浦一族と大江一族
1247年、三浦義村の子・三浦泰村の時に、執権・北条時頼の謀略によって宝治合戦となり、三浦一族近親500人以上が死を遂げ、三浦一族の勢力は弱まった。
この時、大江広元の4男、毛利季光は妻の実家が三浦氏だったことから、毛利氏も三浦氏に協力した為、大江氏(毛利氏)も知行地も没収され勢力を弱めた。前述もしたが、生き残った子孫は戦国時代中国地方の覇者となる毛利元就が有名である。
千葉氏から分かれた大須賀氏、大須賀胤信の八男・成毛八郎範胤(大須賀範胤、君島嗣胤)は、正室が三浦一族・津久井泰行の娘であったことから、宝治合戦では三浦氏に荷担して北条氏と敵対したとある。この津久井泰行なる人物は、矢部泰行であると考えられる。
なお、宝治合戦の際、三浦一族の佐原氏はただ1人、執権・北条氏側につき、その後三浦氏を名乗ることを許され、のちに三浦半島を治めることになった。
とにかく三浦一族津久井氏は矢部氏と呼ばれたり、津久井氏自体が三浦一族の出であることから、遠隔地に行くと有名なほうの家名(本家の名)の三浦氏と呼ばれたり、津久井・矢部・三浦の姓が混在して呼ばれており、これらまことからも、三浦一族系の津久井氏や矢部氏は、恐らくは横須賀の津久井、上矢部などを本拠としていたと考えるのが自然か?