丹沢三峰から宮ヶ瀬へ下る途中の御殿の森・南麓、中津川の沿いの渓谷地に「長者屋敷」という地名があり、現在、長者屋敷キャンプ場になっている。
この長者屋敷の地名は隠れ里伝説から名づけられている。
父・新田義貞の遺志を継ぎ、新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力し、1337年、北畠顕家と共に鎌倉を攻略。
しかし、足利尊氏・足利基氏に敗れて、越後に逃れるも各地で転戦したのち、再度、鎌倉を目指した。
その際、1358年10月10日、江戸遠江守の案内で多摩川の矢口の渡から舟に乗り出した。
しかし、舟の渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き、逃亡。
舟が沈みかけると、多摩川の両岸より江戸氏らの伏兵が一斉に矢を射かけた。
裏切られた新田義興は自ら腹を掻き切り、家臣らは互いに刺しちがえたり、泳いで向こう岸の敵陣に切り込むなど、主従13名も、矢口の渡で最後を遂げたのだ。
その家臣に矢口信吉という武士がいたとれ、矢口信吉は主君を失い、わずかな郎党を率いて丹沢山中の宮ヶ瀬の奥地まで逃れていた。
そして、館を築き、隠棲の地とし入道、矢口入道信吉と名乗り落人生活をしたのだ。
周りは山深い丹沢の地。矢口一族は狩猟を主にし、また中津川で魚を取り、更に奥地の川からは砂金を取ったりしたと言う。
確かに、付近の丹沢には周辺には金沢とか金山沢の地名もある。
矢口家は、この山深い地で白い牛を99頭も飼育して、煤ヶ谷を山越えしては、ひそかに鎌倉まで行き交易して富を蓄えたとされ、矢口長者と呼ばれた。
この地は、山を背にした中津川の渓流に、小島が浮かんでおり、その小さな岩は、主君と長年共にした鎌倉の、由比ヶ浜から眺める江ノ島にどことなく似ていたと言う。
矢口長者がこの地に来てから長い歳月がたつと、世の中は足利幕府の時代となり、戦さのない平和な日々になった。
そのころ、中津川の川下の宮ヶ瀬は、当時、谷間に民家が点在するだけの小さな山村であった。
ある日、若者が中津川で釣りをしていると、川に浮いている漆塗りのお椀が流れてくるのを見つけた。
「誰も住んでいるはずがねェ山奥からこんなりっぱな椀が流れてくるなんて」。
不審に思った若者は、川をのぼって行って驚いた。そこには金銀を散りばめたように輝くりっぱな屋敷が建っていたのだ。
その敷地には落ち武者らしい人物も見受けられ、そばには何頭もの白い牛が寝そべり、花々が咲き誇っていたと言う。
「こりゃ、えらいことだぞ」。
村へ帰った若者は、仲間みんなに話したのだ。
村人達は次第に、金銀財宝を奪おうと言う話になり、竹槍や鍬、鎌などを持って、深夜の闇にまぎれて館を襲った。
不意をつかれた矢口信吉一族は右往左往し、一家全員殺害されたと言う。
館には火がつけられ、村人は次々に財宝を運び出した。
矢口長者のひとり娘(又は妻は?)は、御殿の森まで逃げたが、ついに村人に追いつめられ、頭にさしていた金のかんざしで、のどを突いて自害した。
さすがに哀れに思った村人は、金のかんざしご神体とした小さな祠を建てたと言う。
丹沢三ツ峰・御殿森ノ頭の御殿山(相模原市と清川村の境)には、現在でもその祠がある。
付近には、その時、矢口信吉と村人が戦った(勝負した)とされる「勝負沢」、六百両の財宝を分配したとされる「六百沢」、その財宝が重たく持ちきれず捨てた「ころがし沢」。
ひとり娘が殺された場所が「ハタチ沢」(娘は二十歳だった)など、伝説にちなむ地名が残っている。
下記の写真は、長者屋敷キャンプ場の中津川
参考文献
山旅イラスト通信【ひとり画展】