1590年、津久井城が落城した際、北条家の家臣らの首を埋葬したのがこの「富士塚」とされる。
なお、案内板には徳川勢の平岩主税が津久井城を落城させたと言うが、実際には、徳川勢の本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞らが11000~12000で津久井城を攻撃。
平井主税なる武将は、平岩親吉の事で間違いないだろう。
この平岩親吉は、当時、甲府城主であった。
なお、津久井城の内藤景豊はたいして戦わずに、落城したとされる。
その後、江戸時代に入ると富士講が盛んになったが、富士山にわざわざ行けない者が、各地に作られた富士塚と言う人工の小山に登る事でご利益を得たが、津久井の首塚はその富士塚として使用されたと言う。
上記の通り、津久井城を望む台地上にあり、恐らくは徳川勢がこのあたりに本陣を設けたのだろう。
なお、武田勢が三増峠の戦いを行った際には、60のわら人形に槍を持たせて、大軍に見せかけると言う偽装工作をした「六十面」が、まさにこの写真撮影した場所付近である。
まだ、軍勢がいるように見せかけて、撤退したのだ。
なお、この富士塚は、武田信玄が三増峠の戦いのとき、津久井城を牽制した際、作られたとの伝承がある。
なんでも、武田信玄は、富士山が見える場所では、負けたことがないと言われている。
しかし、津久井からは富士山が見えないため「富士山」の形をした小山をここに作って、あやかったとされている。
昔はもっと大きかったらしい。
なお、この富士塚の北側辺りが小幡重貞や加藤景忠ら1200が布陣した「信玄もろこし」(金原)の地でもある。
また、関の信号より西側にある「光明寺」は武田勢に協力しなかった為、燃やされたとある。
アクセス・行き方だが、地図のポイント地点が富士塚の場所。パチコンメルシーの近くだが、付近に駐車場はない。
駐車禁止の道路であり、相模原IC開通で交通量も激増したので、路肩に止めるような事は謹んで頂きたい。