相模川を利用した水運

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 神奈川県を南北に連なる相模川は、相模ダムと城山ダムが完成する以前は水量が多く、また現在のように堰や堰堤がなかったので、江戸時代までは多少大きな船でも航行できた。

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 鎌倉の寺院造営や、小田原城設営などの際、津久井城付近から木材を切り出して、相模川を使って、平塚(須賀)まで木を運搬したことが、複数の文献からも明らかになっているように、古くから船の往来も多かったようだで、相模川の当麻の地には、津(港)があった。

 鉄道開通前は上野原から平塚までの間、そして鎌倉方面、江戸方面を結ぶ交通路として大いに利用された模様だ。
 上流域からは年貢米、竹、木炭など、下流域からは干鰯、塩、日用雑貨などが主に運ばれた。
 下りに関しては、船頭2~3人の高瀬舟や平田舟で、荒川地区(現在の津久井湖底)から河口の須賀(平塚市)まで4時間ほどで着いたと言う。
 上りは南風が強い時は「帆」を張るだけで半日あれば小倉辺りまでこれた。しかし風がある日は少なく、大半は舟に縄をつけ船頭が河原を歩きながら上流を目指し、小倉辺りまで2~3日はかかったと言う。
 また、船での運搬だけでなく、江戸に材木を送る為「筏流し」も盛んに行われていたようだ。
 上流から一本ずつ流され、途中の渡し場で筏に組み、所々で筏士が交替しながら輸送したと言う。舟運や筏流しで栄えた河港は吉野、勝瀬(現在の相模湖底)、沼本、荒川(現在の津久井湖底)、小倉、田名滝、厚木、須賀などの地名がある。
 江戸幕府は江戸防衛上、相模川に橋をかけなかった。その為渡し舟が各地にあった。

 相模川の渡し場は神奈川県内だけでも約30カ所もあったようだ。最後まで残っていた渡し舟は、相模原市田名滝と相模原市城山町葉山島を結ぶもので、昭和47年まで運航されていた。
 両岸にロープを張り、それを手繰りながら渡る針金渡しだ。
 対岸の山仕事だとか、買い物などに使われ、舟が向こう岸にいても呼べばすぐ来てくれましたと言う。その他には普通に高瀬舟や平田舟を漕ぐものや、絶壁が多い山梨県内では籠渡しなどもあったようだ。