国指定・史跡勝坂遺跡 約5000年前
縄文時代中期前半頃(約5000年前)における日本を代表する大集落跡で60軒以上の住居跡が見つかるなど、関東地方における縄文時期を区分する標式遺跡(基準遺跡)で「勝坂式」と呼ばれる。標高は約70mで遺跡はA~Fの各区に分けられる。
勝坂遺跡からは土器のほかに、打製石斧(せきふ)、磨製石斧、磨石(すりいし)、石皿、凹(くぼ)み石、石鏃(せきぞく)などが出土している。とくに、打製石斧の量は多い。そのなかでも、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などの特徴を持つ土器は「勝坂式土器(写真)」と命名されている。また、打製石斧も土を掘るものと考えられ、縄文時代において農耕の可能性を示すものとして注目を浴びた。
遺跡がある段丘のすぐ下には、現在でもこんとんと湧き水が湧出しており、有鹿神社の奥宮がある。勝坂のホトケドジョウ(相模原市天然記念物)も生息しているようだ。
2010年4月より「史跡勝坂遺跡公園」として整備も始まり、D地区の南側には竪穴住居1軒、敷石住居1軒が復元されており、実際に建物内部に入ることもでき、縄文人の生活を想像することができる。なおD区北側では、日本での発見例が少ない縄文草創期の住居址状の遺構も見つかっている。
縄文人は生い茂った森を切り開いて集落を作ったと考えられている。集落周辺では食料として木の実や山菜などの採集住居などの建築材や木製品となる木材伐採や薪燃料など、結果的に集落周辺には、日当たりのよい空間と、土壌ができて、縄文人にとって有用な植物が多く育つ「二次林」が生育していたとみられる。
D区の西側の崖下となる鳩川付近では自然の湧き水があり、昔から水の調達ができていたようで、川でもドジョウが採れるし、相模原の草原ではシカやイノシシ、ウサギも狩猟でしたであろう。また、ちょっと歩いて相模川で魚も捕ったと考えられる。定住するには条件が良く、縄文村の基本原則が良く解る場所なのでお勧めの見学遺跡。
登呂遺跡のように多数の住居を復元して、散策路や駐車場を整備すれば、多くの観光客を呼び込めそうな遺跡である。
なお、勝坂遺跡出土の土器類は相模原市博物館に展示されているので無料で見ることができる。
■縄文時代の生活
縄文時代には氷河期が終わり、マンモスなどの大型動物が温暖化により絶滅。その反面、木の実や魚介類や小型動物が増えたことなどにより、人々の生活は狩猟から採取へと徐々に変わってきた。そして、採取した食べ物を保管したり、木の実のアクを抜くために煮炊きに使うために「土器」が作られるようになったのだ。
わき水が得られる台地上に集落を形成する縄文時代の特徴で、勝坂遺跡は、まさに典型的な例である。
ちなみに日本の縄文土器(16000年前の土器)は、年代測定技術に多少の不安要素は残るが、世界で最も古い土器とされている。(勝坂式は縄文中期の約5000年前で、この頃の気候は現在とほぼ同じでだが、ほんの少し温暖化で、平均気温も1~2℃高かった。)
なお、縄文時代まで人々は平等な生活を送っていた。
その後、若干気候が寒くなり始めたので、人々は勝坂よりも暖かい土地を目指して移っていったものと推測する。
■大山柏
1926年(大正15年)に勝坂遺跡を最初に調査した考古学者は、陸軍少佐でもあった大山柏だ。
この大山柏の父は、日露戦争の際、満州軍総司令官だった大山巌。母は、会津藩家老・山川大蔵の妹で、山川咲子(山川捨松)。