カテゴリー: 相模国の歴史

津久井【三姫物語】

 相模原市の津久井地区には3人の姫の伝説が残る。 南北朝時代に、鎌倉から逃れ津久井の青山の寺で病をいやし、甲州へ落ちのびていった「雛鶴姫」 串川の由来になったとされる「櫛川姫」の悲恋 武田氏滅亡の際、追っ手に追われ、丹沢山塊の麓を流れる神の...

相模国最古級の有鹿神社と勝坂遺跡

 相模原にもすごい歴史を持つ神社があった 約1万年前に氷河期が終わり温暖化となり、豊かな縄文時代に入った。 相模原の各所にも縄文時代の遺跡が発見されているが、その中でも60軒以上の住居跡が発見されている「勝坂遺跡」は、縄文時代中期前半頃(約...

横山党と愛甲氏

 質問回答編とは? 当方関連サイトにお寄せ頂きましたご質問などに対して、相模原の歴史研究会所属会員が回答するものです。古い歴史にはわからないことが多いですので、もちろん歴史認識の違いや間違えなどがあるかも知れませんまで、あくまでもご参考にな...

横濱鉄道(横浜鉄道)の開通 【JR横浜線】

相模原には現在JR横浜線・相模線、小田急線、京王線の各鉄道が通り、市民の足となっていますが、その昔、市内には更に電車ができるはずでした。そんな幻の鉄道を中心にご紹介致します。 横浜鉄道の開通横浜在住で貿易商人だった原善三郎が1894年に鉄道...

幻に終わった相模原の鉄道 「相武電気鉄道」

2つの鉄道敷設出願横濱鉄道(現在の横浜線)が東神奈川~八王子間で開通するなど、明治時代に入り、東京や神奈川各地に鉄道網が敷かれ、鉄道の利便性がわかった相模原の人々は、自分たちの村にも鉄道を引こうと考えました。明治40年(1907年) 橋本駅...

相模原の新田開発と呼ばわり山

 江戸時代後期になると、各藩や幕府の財政を立て直す為、石高を上げる施策として「新田開発」が全国で行われました。 新田開発とは、その名の通り、新しい田んぼを作って、収穫を上げることです。 水の確保が難しい相模原で新田開発?と思われるかも知れま...

津久井城と矢部氏の足跡 (2)  津久井氏を検証

津久井城を築城したとされる津久井為行相模原市の津久井に館を構えたのは、鎌倉時代初期の「津久井為行(筑井為行)」で、その津久井氏の名前が地名になったと言う説がよく見かけられ、津久井城のコーナーでも紹介させて頂いた。別の説では津久井為行の父・津...

横山党の一員だった相模原と周辺の地頭

 横山党の一族が各地に移り住んで、その地の名を名乗ったと考えられます。 横山、椚田、海老名、藍原(相原、粟飯原)、平子、山崎、鳴瀬(成瀬)、古郡、野部(矢部)、小倉、田名、由木、室伏、大串、千与宇、伊平、樫井、古市、田屋、八国府、山口、愛甲...