縄文人が付けた相模原などの地名由来?

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旧石器時代から相模原で人々は生活していた

 今から700万年前に、アフリカで、猿(チンパンジー)から、枝分かれして「人類」が誕生しました。
 その後、徐々に人口が増えたと考えられ、約10万年前に人類の一部がアフリカを出て、4万~3万年前に日本列島に到達したと考えられています。
 相模原の相模川近くは少なくとも約2万年前には日本人の生活した跡が伺えます。
 縄文時代(約16000年前~約3000年前)には、相模原市内にもいくつかの大規模な集落がありました。
 弥生時代になると稲作が持ち込まれ、当麻の辺りでも稲作が古くからあったようです。
 飛鳥時代以降は中央から派遣された大和政権の役人が、相模原の各地を治めていた事を思わせる古墳群も規模的には小さいながらも発見されています。
 相模原市博物館に行くと、古代の暮らしの展示があり、学ぶことができます。常設展示は入場無料ですので、是非訪れてみてください。

興味深い地名の由来

 大変興味深い説では古く縄文時代の頃、日本列島に原ポリネシア語(現在のマオリ語)を話す民族が、太平洋南方から渡来して、日本列島に住み着いた人々が、原ポリネシア語で、日本各地に初めて地名を付けていたと言う説です。
 色々な説の中の1つとしてこのページでご紹介させて頂きます。

 古い時代に付けられた地名は、昔も今もあまり変わらない発音で、今でも使われています。 
 古事記、日本書紀などの古典や、日本語の中にも、多くの原ポリネシア語源の言葉を見出すことができます。
 字(漢字)は朝鮮から渡来人によって伝わってきたものですので、元々あった呼び方に、適当に当て字されたものであることは言うまでもありません。
 まずは相模原とは関係ありませんが、付近の有名な地名や山の語源からご紹介します。

富士山
 
 富士山の「ふじ」は、マオリ語で
 「フチ」、(HUTI)、「引き上げられた(または釣り上げられた山)」の意味になります。
 浅間神社は熊野神社と並び、神社でも最古の部類と考えられていますが、静岡県富士宮市には、浅間神社よりも歴史が古いと思われる、富士山の神を祀る「式内社富知(ふち)神社」があります。

筑波山

 筑波山は2つの峰を持ち、その峰を「女体山」「男体山」と呼び、夫婦の山としても万葉集などでも歌われています。
 この「つくば」は、マオリ語で
 「ツク・パ」(TUKU-PA)、「(男女が歌垣の)交際を許される(山)」と意味されます。 
 
町田市

 町田(原町田)は、境川が流れ、その斜面にあります。この「まちだ」は、マオリ語で
 「マチ・タ」(MATI-TA)、指2本を並べた状態を思い浮かべたようです。
 「指(のように尾根が分かれた丘陵)が浸食されている(崩れている地域)」と意味されます。

江ノ島

 海の上を渡って行ける珍しい江ノ島の「えの」は、マオリ語で
 「ヘ・ノ」(HE-NO)、「(長く続く単調な砂浜の中にあって)場違いな(嶮しい岩場のある島)」です。
 ※「ヘ」のH音が脱落して「エ」となった
 又は「アイ・ノ」(AI-NO)「(境川が)産み落とした子供の(島)」
 ※「アイ」のAI音がE音に変化して「エ」になった

相模国(さがみ)

 江戸時代まで相模国と呼ばれていたのは皆様ご承知の通りですが、「古事記」では「相武国」、歌に「佐賀牟(さがむ)」と記し、「和名抄」では「佐加三(さかみ)」との記述があります。 
 相模の語源は
  1.足柄箱根から見下ろす「坂見」の国(「倭訓栞」)
  2.足柄二郡は山で、平地が少ないことから「峻上(さかがみ)」(「類聚名物考」)
  3.「身狭上(牟佐上。むさかみ)」から
  4.古代朝鮮語の「サガ(寒川)」から
 などの諸説があります。
 この「さがむ」、「さかみ」は、マオリ語の
 「タ(ン)ガ・ムイ」(TANGA-MUI)、「人々が群集して作業をしている(狩りをしたり、耕作をしたり、地引き網を引いたりしている)地域」
 「タカ・アミ」(TAKA-AMI)「山が集まって高くなつている(地域。丹沢山塊を中心とする地域)」
 又は「タ(ン)ガ・ミヒ」(TANGA-MIHI)、「尊敬すべき部族(の住む土地)」 と考えられます。

 さて、いよいよ相模原の地名に入ります。

相模原市の鳩川

 この「はと」はマオリ語の
 「パト」(PATO)、「割れ目(川)」と言う意味になります。
 例えば、勝坂遺跡のすぐ横には谷戸(侵食された谷状の地形で)があり、そのに鳩川が流れています。
 ※(P音がF音を経てH音に変化して「ハト」になったようです

相模原市橋本

 「はしもと」はマオリ語の
 「パチ・モト」(PATI-MOTO)、「拳で殴られたように浸食されている水の湧き出る(場所)」です。
 橋本には、湧水がある台地に集落を築く縄文時代の特徴がある遺跡もあります。
 ※「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」から「ハシ」になった

淵野辺
 
 「ふちのベ」はマオリ語の
 「フチ・ノペ」(HUTI-NOPE)、「引き上げられて圧縮された(土地)」と言うことになります。
 すなわち「台地」の意味ですね。

津久井

 「つくい」は、マオリ語の
 「ツ・クイ」(TU-KUI)で、「(相模川の)上流に位置する(地域)」 の転訛のようです。
 津久井については津久井の地名でも触れていますが、旧石器時代の遺構も見受けられます。

藤野町

 「ふじの」は、マオリ語の
 「フチ・(ン)ガウ」(HUTI-NGAU)、「浸食された高台」
 ※「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」になった

道志川

 「タウチカ」(TAUTIKA)、「真っ直ぐ(に流れる川)」
 ※AU音がOU音に変化し、語尾の「カ」が脱落して、「トウチ」から「ドウシ」になった

相模湖町寸沢嵐

 「すあらし」は
 「ツアラ・チ」(TUARA-TI)、「(山の)背中に放り出されている(場所)」と言うことで、まさにその通りの地です。
 ※寸沢嵐地区のある右岸は傾斜の緩い段丘となっており、縄文時代の遺跡もあります。
 
厚木

 厚木は、月の神を祀ったと言う意味の「ア・ツギ(月)」、もしくは、「ア・ツ(ン)ギ」=大きな居住地。
 
依知

 依知(エチ)は「縮んだ」と言う意味で、相模川の流れの変化で後退したと言う意味とも捕えられます。

平塚

 平塚は、ヒラ・ツカリ=重要な砂丘がある場所と言う意味。

 
総評

 旧石器時代から縄文時代の頃は、北方面はシベリアから北海道に人間が入り、南方からは、フィリピンの方から、台湾→沖縄→日本列島と多くの渡来人がやってきたのでしょう。
 原ポリネシア語は沖縄の先島諸島では、まさにそのままのマオリ語が、現在の地名になっている率が高く、また日本で最も古い時代からあるとされる、南紀の熊野神社の名前は「民族の長」に関係する原ポリネシア語から成り立っています。
 このように文字が無かった縄文時代でも、人々の会話の中で呼ばれていた土地の名前はあったと考えられます。
 しかし、弥生時代に入りヤマト政権の時代までに100万人とも言われる朝鮮半島などからやって来た弥生人が日本列島に住み着くと、縄文人は衰退し、飛鳥時代には「漢字」と言う文字が入り、それまで呼ばれていた地名に、日本語として「漢字」をあてはめていったものだと容易に考えられます。
 縄文時代の1万年間は争いがなかったと言われますが、水稲耕作が持ち込まれた弥生時代は「定住」することになり、土地の利権争いが起こるようになり、また縄文人は弥生人が持ち込んだ結核に対する抵抗がなく、日本人の多くは弥生人になったと言う説もあるくらい、古くから日本に住んでいた縄文人は、弥生人に圧倒されることになります。
 また、古くからある地名でもすべてポリネシア語(マオリ語)と言うわけではなく、北海道などにはアイヌ語が語源の地名であったり、のちの歴史により、大きく変化した名前や新しくついた名前もあります。例えば清兵衛新田=清新のように・・。

 蝦夷(えみし)のアテルイに関する情報も是非ご覧ください。

相模の本当の語源は?

 上記では古代マオリ語からの語源として記載して参りましたが、相模の語源を色々と考えるうちに、古代マオリ語からだとする説を取った場合、小生は下記の結論に達しました。
 日本古来より「サ」がつく名はすべて「神様」に関係するとまず考えました。
 神社の敷地内は「境内(けいだい)」と言う様に、神様と我々には境目があり、神と人間の境目を「サカイ(境)」、その垣根が「サク(柵)」です。
 神様が山から「さと(里)」に下りてくる道を「サカ(坂)」、「さなえ(早苗)」を作り、田植えの時期(5月)を「サツキ(五月)」、米作りに欠かせない長雨を「さみだれ(五月雨)」、田植えをする若い女性の事は「さおとめ(早乙女)」と呼びます。
 繰り返しますが、漢字は元々あった言葉への当て字ですので、そもそもの「ひらがな語」に意味があります。
 山に住み神の使いとされたのは「サル(猿)」、山の中(神の領域)で迷う事を「さまよう(彷徨う)」、今でも神事に欠かせない「ササ(笹)」や「サカキ(榊)」は神聖な植物です。
 神様には「ささげもの(捧げ物)」を「ささげる(捧げる)」為、そのお供え物で最も使われる物は稲から作った「サケ(酒)」で「サカズキ(杯)」に入れました。食べ物として「さかな(肴)」を添えて「サラ(皿)」に乗せました。
 祭りを行う際のサ神様の貴賓席は「サジキ(桟敷)」と言い、庶民は地面の芝に座ったので、芝居と言う言葉も生まれました。
 子供を「さずかる(授かる)」、そして嬉しいことや幸福を「さいわい(幸い)」と言い、サ神に祝ってもらう事を意味します。「サチ(幸)」は、サ神にたくさん集まってもらいたいと言う意味です。

 このように日本古来より使われる神様に関連する言葉は「サ」から始まります。

 サがたくさん使われる理由としては、日本で一番古い神様は「サの神」と言う自然信仰であるからだと推測できます。
 サの神は「山」の神様で冬は山に篭り、暖かくなると里に降りて来ると考えられていました。
 3月下旬に暖かくなると「サクラ(桜)」が咲く訳です。
 すなわち、現在の神奈川県においては大山信仰が石器時代よりあり、縄文時代から弥生時代に入ると豊作を祈願したと考えられます。

 大山は気象予報においても分かりやすい山で、山頂が雲で覆われていると、かなりの確率で翌日は雨が降ります。当日でも、雲に覆われ始めると、やがて夕立が降ったりします。
 すなわち、古代人は、大山が雨をもたらすと言う意味で、稲作には欠かせない山として神格化したのでしょう。事実、大山山頂に建っている神社は、阿夫利神社(あふり)、すなわち「雨降り」と言う名がついています。

 このようにサガミと言うのは「サ神(サの神)=山の神(サガミ)」と言う表現がそのまま使われ、朝鮮から漢字が日本にやってくると、サガミに当て字で「相模」と言う漢字がついたと小生は考えます。
 この他、日本は古来より自然信仰でしたので、サがつく国の名は多いです。薩摩、讃岐、佐渡、上総、下総、若狭、土佐、武蔵など。
 相模国一宮の「寒川神社」も「サ」=神が「ム」=住む、川=相模川の神社と考えられ、実際、現在の相模川から800mくらいしか離れていない場所に、寒川神社はあります。
 朝鮮からの渡来人により漢字が日本に入ると、サムカワ神社は当て字で「寒川」と付けられたのでしょう。
 古代には相模湾が寒川の辺りまで来ており、相模川の河口付近だったと考えられていますので、この寒川神社の名前の由来を考えると、現在相模川と呼ばれている川の名の由来も、古くはサムカワと呼ばれ=神の川と言う意味であったと容易に推測できます。
 相模国の東を流れる「境川」(さかいがわ)も、サガミとの境 = サの神との境にある川と言う意味だと容易に想像つきます。
 そんな神様に感謝しつつ、サケを飲みながらサクラを見て、ササゲものをお供えし、日本人として神様に「さからわない(逆らわない)」ように敬い、サチ(幸)を得たいものです。

おまけ 海老名と座間の本当の地名由来

 海老名と言う地名、珍しいですね。
 海からも結構離れているのに、海老(エビ)と言う、海の生き物の名前がついています。もっとも、エビは淡水の池などにもいますが、海老名の場合、エビは、エ(江)・ミ(曲がった所)で、「川の曲流」ことで、ナは場所を示す接尾語だと考えられます。

 座間と言う地名ですが、座間は元々「イサマ」と呼ばれたそうです。当然ながら漢字は後世の当て字です。しかし、この座間は大変興味深い地名です。なぜイサマと呼ばれたのか?小生はこう考えます。
 イサと言うのは、神の名前に由来すると考えます。イサナギとイサナミと言うとわかりやすでしょうか。要するに日本を征服した大和朝廷としての男性神と女性神です。
 それよりも、もっと前の古代には勝坂(相模原市)に有鹿神社(あるか)がありました。勝坂遺跡では今から約5000年前に、既に祭祀が行われていた跡も発見されています。
 推測するに、勝坂遺跡に住む縄文人らは、古来より「あるか」の人々とでも呼ばれていたのでしょう。

 その後、有鹿神社は海老名に移りました。海老名辺りを征服した新しい勢力(鈴鹿?)が、地元民に慕われていた有鹿神社を強制的に移したとも言えると思います。
 鎌倉時代には、当時では大変貴重な、神社界の最高位である「正一位」を朝廷より賜ってるほどの格式です。
 社殿は豪華で広大な境内に12以上の坊舎があったとされます。なお、元々の場所の勝坂には、現在も有鹿神社の奥宮が残っています。

 最初にできた勝坂の有鹿神社は、相模国で最古の神社とされており、祭られている神様は有鹿比女命(女性神・水神)です。
 海老名に移り大きくなった本宮の有鹿神社は有鹿比古命(男性神・太陽神)となっています。
 要するに、男性神と女性神の中間の場所=イサのマが「座間」なのだと小生は考えます。

 有鹿神社には奥宮・本宮の他に、昔は「中宮」もありました。現在、中宮は移動して本宮のすぐ近くにありますが、古代には座間の辺りにあったそうです。
 この意味からも、男女神(イサ)のあいだの地(マ)が、座間であったことを知る事ができます。

 ちなみに、相模国一宮の寒川神社の祭神も、寒川比古命と寒川比女命と、男性神・女性神を祭っており、神奈川県で古くから生活していた民は、太陽信仰と農耕に基づいた神様を信仰していたことが伺えます。サムは「神(カム)」と言う語源から来ているとも推測されます。

参考・引用
 
 夢間草廬 全国各地の地名に関して素晴らしく研究されています
 2012年に、閲覧者様より指摘を受け、修正を加えました。
 自分の考えは違う?などと言った、ご意見もあるかと存じます。
 色々な説の中の1つとしてご紹介させて頂いておりますが、上記が正しいと申している訳ではありません。
 議論が活発になるのは歓迎でございますのので、当サイトでは隠さず、コメント賜りました内容は、公開させて頂いております。

コメント(7件)

  • 時の旅人 より:

    大変興味深く拝読しましたが、日本の古代語がアイヌ語であったにも関わらず、なぜ、原ポリネシア語で解読しなければならないのか判りません。
    更に、日本語は漢字でも表現されます。つまり、漢字は漢字の要素を組み合わせ、一つの文字(意味を持たせた短文)になっています。この二つのことから、地名や人名が解読するのが妥当であると考えます。

    相武の枕詞「さねさし」ですが、これは「古事記」の弟橘比売命の辞世の句「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母(さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも)に由来します。
    漢字での解釈は、「岬が右(三浦半島)と左(真鶴岬)にあり、間は泥地(古代は泥地であった)で、刃物で切刻まれてボロボロになった箕の形」の形をした「相武(相模)」を表しています。
    句全体の解釈は、「刃物で切刻まれてボロボロになった箕の形をした相武國の小野で謀反を図り、倭建命一行を(勝坂遺跡傍で焼討ちにしようとした)豪族等を(御嶽神社迄取って返して)大樹の根元で脅し、降参させ、殺害して、皮を剥いで水に流した」となります。
    同様に、アイヌ語での解釈は、「夏、台風が来て洪水が起こり、前の海(相模湾)が泥だらけになり、流木が湾や河口に沢山集まった。最後は国造等を棒等で殺して焼いた。相武國の大沼は静かになった」となります。

    詳細は省略しますが、倭建命の焼討ち現場は、相模原市の勝坂遺跡そばの有鹿神社の奥宮付近であることは、漢字とアイヌ語の解読から判ります。
    また、同様に、焼遣は厚木市依知地区であることも判ります。
    この様に、倭建命の東伐に関する地名は、厚木市、相模原市、座間市に集中しています。
    それは、「厚木、小野(神社)、御嶽(神社)、山際(神社)、座間(神社)、勝坂、有鹿(神社)」などです。
    「焼遣(やつか)」を静岡県焼津とする説の間違いが、明確になります。

    • 高田哲哉 より:

      時の旅人さま、大変貴重なコメント、誠にありがとうございます。
      コメントに気が付くのが遅くなりましたが、公開させて頂きました。
      もし、お詳しいようでしたら、当サイトでは無料でページ投稿できる制度もございますので、是非、ご意見発表の場にご活用賜りますと幸いに存じます。
      また、他の皆様も、よろしければ、どうぞ自由にご意見・ご感想を賜りまとうれしく存じます。

  • だいすけ より:

    縄文時代の日本人でさえ何語を喋っていたかはっきりしないのに、当時のポリネシア人がマオリ語を使用していたのでしょうか。。
    その説は信ぴょう性が低そうですね。

  • おもち より:

    各地名の初出年はいつです?
    例えば1600年代が初出の地名を上代初出と並べたらおかしいですよね?

    日国で調べればすぐわかるレベルぐらい書いてくれないと信用できるかの判断もできません。
    文自体は面白かったです。オロチはオロチョン族と同じぐらい面白いです。

  • ソォラナカムアァ より:

    面白いですね。
    淵野辺=フチノペは有名(?)ですね!

    ハヒフヘホのほとんどは古代ではパピプペポに近い発音だったらしく、そこに当てはめたり、いわゆる英語とロマンス語の母音置換に近いものを当てはめると一気にポリネシアっぽくなりますよね。
    似たようなことを考えている人がいてよかった。

    「さ」に関しては、個人的には最敬礼の言葉のような意味合いもあるのでは、とも思います。普段私たちが行動するときに発する何気ない掛け声などの言葉にも「さ」が付くものが多い気もします。特に何かを(他者や自分自身だったり)促すような時に。

    ヤビツ峠というのが秦野にあります。漢字が当てられていないし不思議な語感なので調べてみると「矢の入ったヒツが置かれていた場所」という言い伝えがあるようですが、不自然すぎるので、古代日本語を想像しながら考えてみました。
    結果、自分の中では「多くの冷たい沢がある場所」という意味なのではないか、というところに辿り着きました。
    ヤは8で、八という数字は漢字の形からは末広がりを想像させますが、数字としては非常に大きな数字を連想させる、ビはピで冷えるの意味、ツは津にあるように水を意味する、というところから来ています。

    本文に「そもそものひらがな」という言葉を使われていますが、そもそもひらがなは漢字の略字では?という意見が見えてきますが、私も実は「そもそものひらがな」に近い考えを持っています。
    元々文字を持っていない日本に漢字が伝わり、万葉カナをはじめとして当て字として使われ、次第に意味に合わせて当てられるようになる。(文字の機能を果たすものはあったのかもしれないが大陸文化に飲まれる)。
    しかし、話す言葉とそれとは多少ラグがあり、元々話していた言葉に近い発音を文字にする動きがひらがなを形成させたのではないか、と考えています。漢字からひらがなへの略し方は独特のセンスで略されていて、それはポリネシアやメラネシアの文化に似たようなものを感じさせられることもあります。
    相模辺りに元々住んでいたであろう人々の身体的特徴にも実は注目していて、肩や骨盤の形、目元(特に瞼)、背骨の長さなどですが、特に県央以南では関東北部や近畿地方の方々とは多少違うようにも感じます。
    これは米を消化するために必要な内臓の長さや、生活環境に適応した骨格などが関係していると思っていて、やはり県央以南は古くから狩猟採取民族の子孫の方々が多く住んでおられるのではないかと推測します。
    これはあまり大きな声では言えませんが、血液型なども関係しているように思います。

    ここで私が述べていることは特にデータも無いので私の妄想の域を出ませんが、そう考えると地名の発音などはとても歴史を持っていて非常に楽しくみることができる気がします。

    長々と支離滅裂で失礼しました。
    記事がとても面白いのでブックマークさせていただきます!

  • おっぱま より:

    地名の由来を考える時は漢字を考慮しないというのは賛成です。
    元々日本の古語には漢字なんてなかったわけですから、元ある地名に適当な漢字を当てはめただけでしょう。
    例外もあります。横浜は横に長い浜だから横浜、滋賀の長浜も長い浜だから長浜。しかしこういった例は少数で、大部分は読みで考えなければいけません。
    鶴見を「鶴を見ることができたから鶴見」なんて由来は瑞祥もいいとこで、鶴がいただけで地名になったら日本中が鶴川、鶴原、鶴沼で埋め尽くされるでしょう。
    これはツル(古語で川の流れが渦巻く地点)ミ(古語で水)の合成語で、鶴見川が河口付近…現在はまっすぐ海に注いでいるが古来はデルタ状の砂州でひどく蛇行していた…で渦巻いている様子をあらわしたもの。
    すべての由来をポリネシア語に求めるのは危険ですが、少なくとも漢字の字義から由来を考えるような発想は地名学とは言えないでしょう。もっとも、古代日本人が使っていたというポリネシア語と現代日本語の語順語彙文法がまったく違うのが疑問ですが…

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