相模原の「道」に焦点を絞ってみました。調べると、相模原から各地に繋がる道は、太古の昔からあったことがわかります。
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大山道
丹沢山地の東に位置する大山は、山岳信仰として修験者の行場でもあった。大山に雲がかかっていると雨が降りやすい事から、古くから雨降山(あやりやま)とも言われ、弥生時代からは農民の間で雨乞いの対象となり、漁民の間では大漁祈願の場でもあった。 相模原市津久井の鳥屋地区では、子供が7歳になると父や祖父に連れられて大山を登拝したと言う。大山は先祖の霊の行き着く山とも考えられていたようだ。
橋本から塚場を経由して田名に繋がる道は関東北部から大山詣する人々が利用した道として「大山道(大山街道)」と呼ばれた。熊谷から通ずる街道で、熊谷の南に位置する松山の地名から、松山道・大山道と呼ばれた。(相模川、田名(久所)の渡し、または磯部の渡しを利用)
古くは、八王子から七国峠を抜けて、境川の二国橋を渡った。少なくとも平安時代より古くから使われていた古道だ。
江戸初期に、幕府の計画により、橋本には「橋本宿」が作られ、徳川家光公が静岡の東照宮から日光の東照宮へ宝物などを運ぶにあたっては、東海道は混雑する為、小田原から橋本を通って熊谷に行く裏街道として利用した事もあり、日光往還八王子道とも言われた。
大山詣での人々は、境川の両国橋で体を清めてから橋本宿に入った。
江戸時代中期までは、望地から六倉へと相模川を渡ったが、その後、相模川渡河には久所の渡し経由と、当麻の渡しの2箇所が使用された。大山道が橋本で久所方面と当麻方面に分岐するため、木の棒の道標が橋本にあった。現在、橋本変電所の南側に「棒杭」が残っている。
久所で名主を務め宿屋を経営していた江成氏の記録によると、夏山の際の宿泊者は、1799年415人、1804年582人、1820年646人であり、相模川が増水したときは2~3日逗留する場合もあり、栄えたようだ。
しかし、1840年以降は、橋普請や道路普請などと称して、街道を通る商人や旅人から、不当な金銭を要求する悪い人々が流行すると、旅人も脇道を通るようになり、久所も少しさびれたようだ。
久所には高田橋、当麻には昭和橋が架かり、現在でも相模川を渡る重要道路になっている。
絹の道(津久井道)
江戸時代、津久井方面から江戸に通じる街道は「絹の道」と呼ばれ、津久井や八王子などで生産された生糸を馬の背につけて往来した道となった。
絹の路は大塚山越えの路で、現在の国道16号御殿山峠付近の東側にある。縞買い商人たちは八王子市内よりも近郷に住んだといわれるが、その生糸商人の多くがこの鑓水の地に豪邸を構えていたようだ。
1858年に日米修好条約が締結され、横浜港が開港し、生糸は海外への輸出が増え、明治に入ってからは外国商人を招待する異人館もあったという。
現在は、絹の道資料館がある石垣大尽と称される豪商・八木下要衛門屋敷跡がある。
なお、海外への輸出が増えると、相模原地域でも養蚕が盛んとなり、特に神奈川県の中でも田名地区は、当時の農家90%が養蚕に携わり、製糸工場を経営していた田名の産業組合は、神奈川県の貯蓄番付表でも抜きん出ていたほどの盛業であった。
鉄道が開通すると輸送は鉄道が主流となり、また外国から生糸を購入したほうが安くなり、時代の流れで絹の道も廃れていった。
七国峠と杉山峠、そして鎌倉街道
八王子と相模原を結ぶ古い峠道としては「七国峠」と「杉山峠」の2つが古代から使われていた。
地図が発達していない戦国時代より前の時代には、峠道と言うのは、現在のように道路を作り易い、出来る限り低い場所を越えるというより概念はなく、峠付近から行く先が見えやすい=行く方角の状況を確認できる、少し高くても遠方を望める場所を抜けて行くと言う趣旨があり、現代のように、電車や車の登坂能力などを考えて、最短コースや、高低が低いコースを取ったわけではない。
七国峠は鎌倉時代には「鎌倉街道」として使用され、平安時代末期、横山党は八王子から七国峠を抜けて、相原に住み着いたと考えられるが、峠道そのものは奈良時代にはもう既に使われていたようだ。いわゆる「古道」である。
杉山峠も七国峠同様、かなり古くから使われていたようで、一般的には鎌倉街道として扱われる。現在杉山峠のすぐ隣りには御殿峠として国道16号が通ると言う交通の要所でもある。
武田信玄が八王子・滝山城から相模原に進軍した際には、杉山峠を使用したと考えられる。
このように相模原と八王子の境には、鎌倉古道が2つも存在し、現在も切通しが残るなど、その面影を残している貴重な古道となっている。
八王子から鎌倉に馳せ参じる鎌倉街道は、八王子から七国峠や杉山峠を抜けて、現在の町田街道を町田方面に進み、町田で関戸方面からの鎌倉街道が合流し、鶴間から国道236号、国道467号を通り藤沢、そして鎌倉に通じる道が、鎌倉に行く為の幹線であったと考えられ、事実、昭和初期まで、横浜方面から八王子への主要街道は町田街道しかなかった。
鎌倉時代、相模原は不毛の地であり、小田原方面には、相原から二本松、下九沢、塚場、田名又は上溝から当麻に抜ける道であったと考えられる。
幻の相武鉄道
明治維新以降、相模原には鉄の道が引かれた。
その中には、相模原台地に建設途中で断念した鉄道もあることをご存知だろうか? 幻の電鉄に関しては、横浜鉄道と相武鉄道のページにてご紹介している。
相模原の国道16号
昭和14年に日本最大規模の軍都計画が制定された際に、横須賀鎮守府と相模原の各軍事施設とを結ぶ為、新たに計画された国道。
それまで横浜方面から八王子に繋がる道路は現在の町田街道であった。
戦前の当時、最新鋭のコンクリート舗装がされた。ちなみに、相模原の16号がほぼ直線になっているのは、戦前、戦闘機の非常用滑走路も想定していたからだ。
清新交差点、相模原駅入口交差点、相模原警察署交差点、鹿沼台交差点などの敷地が広く取られているのは、昔、交差点の真ん中にロータリーがあった名残りである。
西門から市役所前そして上溝へ繋がる道路も、相模造兵廠から、当時相模原で一番栄えていた上溝をつなぐ縦の幹線として、同じく軍都計画の際に作られた。
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圏央道
首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の一部区間として建設中。片側2車線(計4車線)で設計速度100km。
完成すると、北は中央道に八王子JCTで繋がり、長野・新宿方面に行けるだけでなく、関越道にも繋がり、南は海老名JCTから東名高速に繋がり、全線開通すると、相模原ICから東名厚木ICまで20分(現在一般道で60分)、東名横浜町田ICまで30分(現在一般道で55分)など南北方向への交通の利便性が格段に向上する。
早期開通を望む声が多いものの、高速道路作りが日本で一番早い旧道路公団や首都高速の所管ではなく、国土交通省の管轄の為、残念ながら建設スピードが遅くてなかなか開通しなかった。
事業化して10年以上経過し、開通予定は当初見込みより遅れた。
海老名北JCT~海老名北IC間は2010年2月27日開通した。海老名北IC~相模原愛川IC間は2012年度に開通する予定だったが、用地買収が一部難航し、2013年3月30日の開通となった。
相模原愛川~高尾山は、2014年6月28日に開通。
相模原ICから北の建設担当:相武国道事務所
相模原ICから南の建設担当:横浜国道事務所
津久井広域道路と相模原IC
相模原市内の国道16号橋本五差路と、津久井町の国道20号勝瀬橋を結ぶ、総延長20km、車道は片側2車線(計4車線)の新しい道路。
相模川に掛かる「新小倉橋」はすでに完成しており、一部区間は通行可能。さがみ縦貫道(総称は圏央道)の相模原ICに繋がる。
津久井町根小屋~同市城山町小倉の間は、2015年3月29日の相模原IC開通にあわせて通行可能となった。
津久井広域道路が全線完成すると国道になる可能性もある。
国道16号・国道246号 町田立体事業
東京都町田市での道路立体化事業ではあるが、相模原市民の皆様の交通にも大変重要度が高い為、取り上げさせて頂く。
相模原市内から東名高速道路の横浜・町田ICに出る際、国道16号を横浜方面に南下するが、ICの手前で国道246号と交差する為、長年渋滞の名所となっている。
国道246号を高架橋にするなど改善策を実施済だが充分ではなく、横浜方面から相模原に進むにも、相模原方面から横浜方面に進むにも両方向大変渋滞し、経済的損失が大きい場所だ。
約2.5kmの距離を渋滞により最大26分通過に要する区間だが、完成すると、相模原から横浜・町田ICや横浜方面への渋滞が大幅に解消される。
その為、保土ヶ谷バイパス(国道16号)から、相模原側の大和バイパスに繋がる更なる高架橋を建設している。246号の高架橋の上に、高さ約20mの16号高架橋が通り、横浜・町田ICにも直接繋がる。
2010年度に完成予定であったが、こちらも国土交通省の事業だけに多分に漏れず、大幅に工事は遅れている。
建設担当:川崎国道事務所
参考 あった!kcyマイタウンsagami