古事記・日本書紀に登場する日本武尊(ヤマトタケル)は有名で、日本各地にその伝説が残されています。
そんな、日本武尊が「相模原」にも大きく関係していた可能性があるのです。
なにぶん1700年前の事ですので、不明な点が多すぎますが、相模原に伝わる日本武尊の足跡などを検証した上でご紹介させて頂きます。
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ヤマトタケルの東征
九州を平定した小碓命(ヤマトタケル)は、弟橘比売(オトタチバナ姫)と結婚して、すぐに東征を開始。
相模国に入る前に弟橘媛(弟橘比売命、弟橘姫、橘比売、おとたちばなひめ)と合流すると、相武国(さがむのくに)にて、ある国造(くにのみやつこ)に出会います。
この「相武」と言うのは、神奈川県の辺りと言う事で、国造と言うのは地元の豪族です。
この豪族(土地)の役人がヤマトタケルを迎えると「草原の神が従わないから成敗してほしい」と野原の中の大沼に案内します。
しかし、それは「罠」でして、いつの間にか草原に火がつけられると、ヤマトタケルは炎に囲まれてしまうのです。
妻の弟橘比売とともに焼かれてしまうところでしたが、手に持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣で、まわりの草を刈り取り、叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火を焚いて火の向きを変えました。
このとき、風向きも味方したようで、難を逃れたヤマトタケルは、罠に陥れようとした者たちを捕えると斬り殺して、死体を焼き、その場所を「ヤキツ」と呼びました。
要するに、相武(さがむ)、すなわち相模と武蔵の堺だと考えられる付近の豪族が、焼くほど大変広大な野原の沼付近におびき出して、火を放った訳です。
その火攻めした豪族を滅ぼすと「焼遣(ヤキツ)」と称したのですね。
そして、この時使われた剣は「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりました。
草を薙ぎ倒したと言う事からなのでしょう。
単純に解釈しますと、西暦300年頃(縄文時代から弥生時代に変わる頃)に相模の豪族・相武国造は、足柄峠を越えて相模に入った、大和の勇猛な武将(ヤマトタケル)による大和朝廷軍の侵略を受けます。
そして、火攻めにて対抗したのですが、敗れてその遺骸も焼かれると言う残酷な目にあったと言う事です。
こうして、この火攻めは一般に「草薙伝説」と呼ばれるようになりました。
以上が概ね日本最古の歴史書「古事記」(712年)に記載されている内容です。
ヤマトタケルは、古事記では倭建命(やまとたけるのみこと)。
日本書紀では日本武尊(やまとたけるのみこと)と記載されています。
いずれも400年もあとに記載された内容ですので、もちろん信憑性には疑問点が残ると言うより、もともと神話の書物です。
しかし、大和の勇猛な武将がいて、各地を征服をしたと言う事実をもとに伝わる伝承から記載されたものと推測できます。
日本書紀では
日本書紀(720年)では、ヤキツの内容がちょっと違っています。
国造は「沼の神」がいるからと言う話では無く、「鹿」がいるので見に行くように勧めています。
日本では今でこそ平野部は住宅などが建ち並び、住むところを失った鹿は山の上に追いやられましたが、鹿はもともとは平地に住む動物であり、神の使いともされていました。
また、日本書紀ではヤキツの地が、相武ではなく「駿河」だと記載されています。
この事から、ヤマトタケルが火攻めにあい、相手を殺して焼いた「ヤキツ」の場所は、静岡県の焼津(やいづ)だと一般的に考えられているのです。
実際問題、静岡県には「草薙」という地名もあり、また日本武尊にまつわる神社や史跡がたくさん残されています。
しかし、日本書紀では草薙剣で草を掃う記述はなく、天叢雲剣が独りでに草を薙ぎ掃い「草薙剣」と名付けたと説明されおり、また、火打石を叔母に貰ったと言う記述もありません。
また、静岡に残されている地名・史跡が日本書紀の編さん前である1300年以上前からあったかどうかにも疑問点は残ります。
ヤキツはどこだ?
古事記ではヤキツは相武、日本書紀では焼津となります。
そして、焼津にはそれらの地名や史跡があります。
しかし、古事記で相武と記したのと、相模国と、駿河国では場所がかなり離れています。
そのため、相武、すなわち相模におけるヤキツの可能性を調べてみました。
残念ながら、相武(相模と武蔵の境目付近)には史跡やヤキツや草薙と言った地名はありません。
小田急線の駅に「相武台」とありますが、この名称は、昭和天皇が、当時、相模原に作られた陸軍士官学校へ行幸した際に、この台地を「相武台」と命名したことから始まりますので、ヤマトタケルとは無関係と考えられます。
しかし、私が注目したのは、ヤマトタケルの妻である弟橘媛(おとたちばなひめ)が、浦賀水道で房総に渡ろうとした際に、命を落とした際の古事記にある和歌です。
「さねさし 相武さがむの小野に 燃ゆる火の 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも」
相武の野に燃え立つ火の中で、わたしの心配をしてくださった貴方と言う意味になります。
しかし、この和歌の中では相武の知名として「小野」と登場しています。
この小野は「野原の事だ」と解釈される事が多いのですが、私は地名だと直感しました。
「さねさし」とは相模の枕詞ですが、あまり意味はなく、あとに続く言葉を導くための調子を整える役割だといわれております。
「さがむ」と言うのは大山信仰などによる相模の語源で、さが=神様が、住む地と言う他なりません。
「相模川」と言うのも、さが=神様が住む地の川と言う事で、その川のかつて河口付近だった地に、相模国一宮の「寒川神社」があるのです。
寒川の「さむ」も意味も簡単ですね。神様が住む川「さ」と「む」と言う事です。
神様に捧げる飲み物は「サケ」(酒)であり「サカズキ」(酒盃)に入れ、お供え物の「サカナ」(肴)は、お「サラ」(お皿)に乗せて、神様に「ササゲル」(捧げる)のですね。
そして、暖かくなると山の神様がサカ(坂)を下って、サト(里)におり、農耕の神となるので、その頃にサク(咲く)花の事をサクラ(桜)と呼んだのです。
その相模の「小野」と言う事は、すなわち、弟橘媛は、相模の小野と言う場所であったと伝えたかったのでしょう。
単なる野原を現すのであれば、小さいと言う漢字をつける必要はなく「相模野」でよかったはずです。
それでは、相模の小野はどこなのか?
そんなに苦労することなく、ある程度想像することができました。
相模・武蔵の小野はどこなのか?
横山党を研究した際に、疑問に感じていたのが、小山田氏の「小山田」の本拠地と、派生した小野氏の本拠とも考えられる「小野路」が余りにも隣接しすぎていると言う事でした。
なんで、そんな隣を領したのに、小山田氏と小野氏と名が異なる結果となったのか、長年疑問を感じていたのですが、小野路と言うのは、その名の通り、付近の中心地であった「小野に繋がる道」と考えると、その疑問点も解決します。
では、その「小野へ繋がる道」の小野は、どこだったのでしょう?
厚木市に「小野神社」がありますが、その小野は八王子の横山党が鎌倉時代の直前に相模に進出した際に、建立した神社です。
しかし、もともと古くから社があったとされますが、その古い時代のこの地は名称は玉川郷です。昔から小野の地であったならば、小野郷と呼ばれていないのが不思議です。
小野氏発祥の横山党でありながら、横山党がずっと厚木の玉川郷を支配していなかったことからも、厚木の小野はやはり横山党が進出し、愛甲と称して違う場所にあった社を移して小野神社を作り「小野の地」となったのが始まりと見てよいでしょう。
そして「小野神社」は厚木だけでなく、町田・府中・多摩と各地に点在します。
いずれも、平安時代末期に八王子を中心とした横山党が武力を以て進出した地だと考えられます。
では、なぜ、横山党は新たに支配した地に「小野神社」を建立したかと申しますと、元々は「小野氏」を称していたからなのです。
そして、厚木の小野神社が「日本武尊」を祭神としたのは明治時代に入ってからと言う事になります。
ただし、この横山党が小野氏だった出自には諸説ありますので、朝廷に関係する小野氏なのが、在地豪族として「小野氏」を名乗るようになったのか?などは良くわかっていません。
しかしながら当然「小野」(おの)と言う地名に住んだから、小野さんなのです。
そのまま受け取めますと、その小野氏の本拠は「八王子」と言う事になりますが、小野氏が横山(八王子)に入って初めて「横山氏」を名乗ったため、八王子に入る前の名が小野だと言う事は、それまでは、いづこかにあった小野を本拠としていたと考えて良いでしょう。
いずれにせよ、八王子に入ったくらいですから、小野と言う場所は、八王子から隣接するなど、そんなに遠くは離れておらず、町田の小野路に見られるように、町田からもそんなに離れていないのではと、小生は推測しました。
その為、最初は今でも大変栄えている東京都町田市こそが、昔は小野と言う地名だったのではと仮説を立ててみました。
町田は現在この付近で最も栄えている街であるにも拘わらず、土地の名前を称した「町田氏」と言う武士も見当たらないからです。
しかし、よくよく調べて見ますと、町田は江戸時代に開拓して、町田村が成立したようでして、残念ながらそれまでは未開の地だったようです。
小野は相模大野なのか?
もっとも「小野」と言う地名は、局所的に狭い範囲では無く、かなり広範囲を示したと推測できます。
そこでちょっと周囲に小野の範囲を広げて見ますと、あるではありませんか。
相模大野が。
相模大野の辺りは「大野村」でした。
小野(おの)も大野(おおの)も発音はほとんど同じです。
神奈川県の大磯(おおいそ)も、戦国時代までは小磯(おいそ)とされていましたので、小さいと言う漢字が時代を経て「大」と言う文字に代わる事は不思議な事ではありません。小さいよりは大きいと書いた方が見栄えが良いので、のちに小野を大野と記するようになたのでしょうからね。
現在保存されている相模原の台地には木々が茂っており、草原の面影は全く残されておりません。
これは、江戸時代後期に新田開発(とは言っても畑)のため草原の相模原に入植した際、生活する為の燃料となる「薪(まき)」を得るために、樹木を植えたのが始まりでして、江戸時代の中期まではウサギや鹿が飛び回る「草原」でした。
草原と言っても、ススキは150cm以上もあるので、背が低い人が多い昔では、このさがみ野(相模野台地、相模原台地)に迷って入り、出て来れなくなった村民もいたとされます。
そのため、「呼ばわり山」と言う、土を持って3mくらいの「高台」にした物見の土台が、相模原には数箇所現存しています。
相模野の台地で行方不明者が出ると、この呼ばわり山に上がって、大きな声で探したり、鐘などを鳴らして合図したりして、迷い人を捜したと言います。
そして、日本書紀に記載されている「鹿」を見に行くのと「沼」がある言う記述からは、相模原市の「鹿沼」と言う地名なども残されています。
もともと、相模大野付近から淵野辺の辺りの台地には「小沼」(若松2丁目)、「菖蒲沼」(淵野辺5丁目)など「沼」がいつくかあり、淵野辺駅近くには「鹿沼公園」に沼が残っています。
鹿沼と言うくらいですから、草原だった江戸時代中期までは鹿が沼の水を飲みに来たりしていたのでしょう。
また、昭和の初めまで大野村には相模野で最大の大きさだった「大沼」がありました。
現在住宅地になっていますが、大沼神社が残されており、ここにヤマトタケルの火攻めの伝承があります。
なお、海老名から東京の府中方面に抜ける古道があり、奥州古道(中尾道)と呼ばれました。現在の小田急線沿いに町田へ抜ける行幸道路、そして小山田・小野路付近を抜けて行く道であり、奥州廃道と言う名称もありますので、まぁ、今で言う「バイパス」や「新道」ができて、ルートは多少変更もあったのでしょう。
となると、古事記での「小野(おの)」と言う場所は、江戸時代までススキの草原だった相模原市の相模野台地、大沼跡の周辺(と言っても広範囲)で間違いないのではないでしょうか?
下記の地図ポイント地点は、大沼があった場所です。
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当時の海岸線
なお、西暦300年頃(1700年前)の神奈川県の海岸線は厚木・座間の辺りであったとする自説を唱えておられるサイトもございましたが、海岸線が内陸部奥深くまで入っていた「縄文海進」は、今から6000年前の話でして、この時は現在の海面から+4mでして、それでも、厚木よりだいぶ南側の方となります。
一番深く海と接していたのは、今の寒川神社の辺りで、しかも6000年前の話です。
出典:神奈川県立「生命の星・地球博物館」
※各写真はクリックすると拡大します。
海面が上昇し、厚木や座間の方まで海岸線がより内陸部に深く入り込んでいたのは10万年以上前の話でして、その後、海面が低下します。
直近では旧石器時代の遺跡がみられはじめる2万年前の海面が、現在よりマイナス120m(陸の方が多い)であったのをピークに気温が上昇(温暖化)し、1万年前にはマイナス40m(江の島の周りもまだ陸)となりました。
更に温暖化が進み、縄文時代の遺跡が見られ始めるころは今より暖かく、6000年前には逆に陸の方が少ないと言う、プラス4mと言う「縄文海進」をピークに今度は気温が下がりはじめまして、現在の海面・海岸線になっています。
最近は温暖化していると言われますが、それは非常に短い間隔での話でして、地球全体の長い流れとしては氷河期は10万年単位がサイクルです。
地球の長い歴史上では今は「氷河期」に入っており、2100年頃まで寒い時期が続くと予想されています。なので、2014年には関東でも大変な大雪が降りましたよね? 今後は、そのような雪も増えると言う事です。
そのため、ヤマトタケルの1300年前頃の神奈川県の古墳時代は、海老名の秋葉山古墳群、葉山町長柄の長柄桜山古墳群、平塚の北金目塚越古墳が確認できてもいますので、当時海岸線が座間・海老名付近だっとは言うのは間違いになります。
それではヤキツはどこだ?
では、ヤキツはどこなのしょうか?
私は、こう考えました。
長津田駅がある長津田は、元々「野津田村」です。
野津田の「野津」(ノツ)ですが、野は「ヤ」とも発音します。
長津田の由来は、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷戸(やと)、谷地田(やちだ)などとされます。
相模大野と町田の間は「谷口」(ヤグチ)と言うのですが、長津田が「谷戸」などと呼ばれるのを考えると、谷口は、境川の浸食でちょっとした谷になっている町田の事では無く、長津田の「谷津」への入口と言う意味なのかも知れません。
西暦900年頃までの東海道の本道は「足柄道」(あしがらどう)または「足柄路」(あしがらじ)と呼ばれ、海老名からこの長津田を通過していました。矢倉沢往還ですね。
そのため、野キ津(ヤキツ)が、谷津(ヤツ)に変化しても、おかしくないのではないでしょうか?
と考えたのですが、もしかしたら、ヤマトタケルによって「ヤキツ」と呼ばれた地こそ、方言などでなまったりして、ヤギヅ、ヤグチ、ヤグチとなり、相模大野近くで国道16号の「谷口陸橋」そして、旧道が交わる交差点名になっている「谷口」(ヤグチ)付近こそが、ヤキツだったのかも?知れません。
長津田駅前にある創建年代が不詳の長津田で一番古い「随流院」の別名は「火伏観音」(火ぶせ観音)と呼ばれています。
これらを考慮すると、相模におけるヤキツの地は、相模大野付近の大野村における「谷口」、もしくは「長津田」であったものとも推定できます。
そして、横浜市神奈川区六角橋2-31にある「杉山神社」には、ヤマトタケルが大伴久応の庵(久応庵)に1泊したと言う伝説がありますが、長津田から旧道で横浜に至る道沿いとなります。
ヤマトタケルが六角形の箸を残したことから六角箸→「六角橋」と言う地名になりました。
以上、色々と相模の可能性を明記させて頂きました、やはり「ヤキツ」の場所に関しては相模国では無理があるように思います。
となると、小野=ヤキツと言う事では無く、火攻めされた場所と、焼き殺した場所は、大きく異なっていたとも推測でき、切り離して考えますと、ヤキツと言う地名の場所に関しては、あながち焼津が正しく、火攻めをしたのはやはり相武だったのかも知れません。
このように考えますと、相模原の大沼にあるヤマトタケルの伝承に関しては、単純に火攻めを行った地(小野)でおり、裏切者を焼き殺して処刑した場所(ヤキツ)とは考えない方が妥当なのかもしれません?
ヤキツは野津や谷口ではなのか?
静岡県には小碓尊(日本武尊)を祭った神社が調べた範囲で9社ありますが、驚く事に神奈川県では78社あり、相模原市内にも9社あります。
そして、まとめますと、私の説としては下記の通りとなります。
海老名・座間あたりを中心にした相模の豪族は、大和朝廷軍に対して相模川での初戦で敗れ、後退すると、小野(相模大野北側の相模野)で火攻めを試みました。
もしくは、最初、恭順する姿勢を見せて、小野(相模大野北側の相模野)におびき寄せ、火攻めの騙し討ちをしたものの失敗。
小野と言う地名の範囲は、大野と言う意味ですので、相模原市の橋本から、現在の246号の北までと、かなり広範囲だったものと推測します。
火攻めに失敗した相模の豪族は逃亡を図りましたが、ほどなく捕まってしまいます。
そして、処刑されて焼かれた場所である場所・ヤキツが「谷口」または「野津(矢津)」、だと言うことを皆様に提唱させて頂きます。
しかし、罪人として大和朝廷に移送したとも推測されますので、その途中に逃亡でも図ったのか?現在の焼津にて焼き殺したため、焼津がヤキツになったとも充分考えられます。
いずれにせよ、相模原市としては沼におけるヤマトタケル伝説をもう少し深く研究してみると良いのでは存じます。
大沼神社で毎年、枯れ草などを焼く「どんど焼き」が行われているのは、たまたまなのでしょうか?
以上、相模原郷土の歴史研究会・高田哲哉による一説でした。
このような事を提唱していては、焼津の方には怒られそうですが、ヤキツの伝説の地として、1300年の間に色々と石碑や伝説を養ってきた焼津がどうしても有利だと言うのは認めるしかありません。
私は古墳時代は専門では無いので、おかしな解釈点も多々あるかと存じますし、皆様に置かれましては、異存もあるかと存じます。
もちろん、上記の相模説も、その中の一つの説でございますが、もしかしたら、私の説に少しでもご共感頂ける方もおられるかも知れません。
と言う事で、ご興味を賜りましたら、皆様とも論議できますとうれしく存じます。
何かございましたら、下記のコメント欄よりお知らせ頂けますと幸いです。
長い文章の最後までの閲覧、誠にありがとうございました。