津久井城と北条氏 【相模原の歴史】
はじめに相模原市の津久井地区は、相模国と甲斐国の接点として、戦略上重要な土地の為、戦国時代には何万もの大軍がしのぎを削った。そんな相模原の津久井にまつわる話をまとめてみた。津久井城(築井城) 津久井湖畔の神奈川県立公園「津久井湖城山公園」に...
はじめに相模原市の津久井地区は、相模国と甲斐国の接点として、戦略上重要な土地の為、戦国時代には何万もの大軍がしのぎを削った。そんな相模原の津久井にまつわる話をまとめてみた。津久井城(築井城) 津久井湖畔の神奈川県立公園「津久井湖城山公園」に...
津久井城からほど遠くない所にある、功雲寺(こううんじ)に行って参りました。 新編相模国風土記稿によると、功雲寺は、戦国時代の津久井城主・内藤景定(内藤左近将監景定)が、1534年3月20日卒、功雲寺の開基とあります。 功雲寺は、津久井...
1590年、津久井城が落城した際、北条家の家臣らの首を埋葬したのがこの「富士塚」とされる。 なお、案内板には徳川勢の平岩主税が津久井城を落城させたと言うが、実際には、徳川勢の本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞らが11000~...
相模原の「戦国ヒストリア」と称して、相模原市内の戦国時代における史跡・城などを写真と解説付きで、アクセス方法・行き方・駐車場情報・観光所要時間なども交えてご紹介させて頂きます。相模原で勉学に励んでおられる小学生や中学生の自由研究にも良いので...
1213年和田合戦で三浦一族和田氏に加担した横山党は和田氏と共に滅亡することになる。 横山党の旧領地である横山庄(現在の八王子市周辺)は、和田合戦の恩賞として、執権・北条氏の息がかかる検非違使・大江広元(おおえのひろもと)(1148年~1...
津久井城の開設者とされる津久井為行 津久井為行には、3人の息子がいたとされ、その名を矢部義郷、二宮義国、平塚為高と言う。 まずは次男の二宮義国から検証する。 1213年の和田合戦前の時代、八王子を中心に現在の相模原市も勢力下にしていた「武...
津久井城を築城したとされる津久井為行相模原市の津久井に館を構えたのは、鎌倉時代初期の「津久井為行(筑井為行)」で、その津久井氏の名前が地名になったと言う説がよく見かけられ、津久井城のコーナーでも紹介させて頂いた。別の説では津久井為行の父・津...
相模原市矢部の地名でもある「矢部氏」は、鎌倉時代初期に横山党の一族として「和田合戦」に和田側として参戦し、討死したと言う説がありますが、同じく横山党で討死しその後名前が出てこなくなった小山氏、田名氏などと異なり、後世にも津久井氏の流れと考...
蒲原徳兼(神原徳兼、かんばらのりかね) 神原三郎左衛門 (生年?、没年?)蒲原徳兼(神原三郎左衛門)は元・今川家の一門衆でありながら、江戸時代初期に、相模原市の牧野にて帰農した武将である。蒲原氏は藤原南家からの出自で、室町後期から鎌倉時代を...
津久井三姫物語でもご紹介致しておりますが、津久井には姫にまつわる伝説がいくつかあります。相模原市の白百合姫に関するご紹介です。陣馬山近くの明王峠には甲斐・武田家が武運を祈願したという不動明王があります。下記写真がそうです。その明王峠から南の...