矢部氏館跡(相模原)と矢部義兼(矢部良兼)

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 横山一族だった藍原孝遠(相原孝遠)の三男で野邊三郎義兼(野部三郎義兼)が、矢部に来て矢部義兼(矢部良兼)と改名した模様です。矢部義兼は横山孝兼の孫にあたります。
 矢部氏横山党として和田合戦に参加して鎌倉で討死した模様です。
 矢部氏居館のものとされる土塁跡(神奈川県相模原市上矢部5丁目)が、現在でもバス通り沿いに、わずかに残されています。

 上矢部の信号のところに、このページトップの写真の土塁が残されています。
 土塁があっと思われることから、多少は防御目的の建物(住居)があったものと推測され、まさに武士の家があったと考えられます。

 

 上記はその矢部氏館跡と考えられる場所です。現在は立派なお宅の綺麗に整備された庭になっております。

 野部(野辺)は、土地の境界線を示す意味があり、野邊氏(野部氏)の名前がその後「淵野辺」の地名に変わっていったのかも知れません。
 現在の上矢部には矢部氏供養の石碑が建っています。町田の矢部町には八幡宮なども見られます。
 また、矢部氏館の裏鬼門にとされる方角に上矢部御嶽神社があり、創建は1190年台と伝わります。
 下記の写真が御嶽神社です。

 

 矢部義兼が勧請し武運長久・子孫繁栄を念じたとされる三獄社が、御嶽神社です。
 その後、衰退しましたが、1305年頃に再建されたと言います。
 また、矢部氏館跡から南側にもいくつか関連史跡があります。

 

 上記写真は薬師堂。
 本堂は1780年に再建されたものですが、矢部館の裏鬼門にあたる場所だとされ、昔から何かあったことなのでしょう。
 地元では魔除けや安産の信仰があるとの事です。

 

 上記は、矢部氏供養のものと考えられる石碑です。
 伝承によると、和田義盛の乱で滅亡した矢部義兼を供養する為の板碑とされ、1303年にに遺族や旧臣らによって建立されたとされます。

 

 地元の方によって、大切に守られていました。
 矢部氏板碑の場所は、下記地図のポイント地点です。
 この付近には残念ながら駐車場はありませんので、町田街道のコープ東京さんで買い物がてら、歩いて訪問してみました。

 
 矢部氏については和田合戦後も、矢部氏の名が出てくる。「津久井氏と矢部氏の足跡」にて、横山党の末柄なのか検証してみました。

 ちなみに、上矢部から町田街道に出ると「常盤」と言う信号(地名)があります。
 常盤と言うのは「永久不変」と言う意味であり、矢部義兼らがいつまでも変わらずにいたいとして命名した地名だったのかも知れませんね。

 御嶽神社や薬師堂は地図に記載がありますので、わかるかと存じますが、どうしもご不明な時はコメント欄からご質問願います。

> 相模原の戦国時代ヒストリア


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