当麻城(当麻要害) 相模原でも歴史ある地を監視した鎌倉・戦国の城跡

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当麻城

 相模原市の当麻(たいま)は太古の昔から人々の生活跡があり、平安時代初期(800年頃)にはすでに当麻に集落があった。古くは當麻とも表記したようだ。
 平安時代935年頃に編集された、日本で2番目に古い辞典「和名類聚抄(和名抄)」には「塩田」の地名が明記されており、古くから人々の往来があったことが伺える。
 その塩田の隣の地にある当麻城相模川に侵食された絶壁にある原当麻の浅間神社にあったとされる。

 

 上記写真がその浅間神社であるが、ここは一段下がった場所であり、本丸では無く、二の丸のような雰囲気であった。
 当麻城があったとされる場所には、空堀や郭と思われる削平地があるもの、当麻城の本丸があった場所は崩されており、明確な遺構はわからない。

 

 上記は、その浅間神社より1段更に下がった場所にある曲輪と思われる場所。
 ちなみに、当麻城の丘台地は標高約70mであり、下の田んぼの場所は約45mと、此高約25mであり、一応は要害の役目を果たしている。
 しかし、城と言うにはかなり規模が小さく、防御面も優れていた訳ではないため、単純に交通の要所の監視程度の役割だったと考えられ、地元の武士の館がこの高台にあったと考えて良いのだろう。

 浅間神社の場所は下記の地図ポイント。
 手前の道路は駐車禁止ではなかったように感じるが、坂でカーブもあるので、車で訪れる際には安全に充分配慮願いたい。

 

 当麻と言う地名は、アイヌ語では「湖・沼」が「入る・ある」と言った意味で、北海道や会津にも見られる地名だが、奈良に見られる当麻は、古代のタギマ(当岐麻)がタイマと言う様に変化したとされている。果たして、相模原の当麻はどのような経緯からついた地名なのだろうか詳細は不明である。

 鎌倉時代初期、源頼朝の異母弟・範頼の家臣 当麻太郎 が治めていたという。
 源頼朝は源義経を殺すようにと、源範頼に命じたが、それを断ったことにより、源範頼の立場は悪くなる。
 追い討ちを掛けたのは1193年5月28日の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは源頼朝が殺されたと誤って伝えられ、悲しむ北条政子を慰さめて「あとには範頼あるかぎりご安心下さい」と発言した事から、将軍の座を狙っているのではとますます疑念を持たれる。
 それらの無実を無実を晴らそうと腹心の部下で武勇も高かった当麻太郎(當麻の太郎)が1193年8月10日、源頼朝の寝所に忍んだが拘束される。(別の見方をすれば、兄・源頼朝を暗殺しよう忍び込んだとも考えら、当麻太郎は源範頼の命で忍び込んだとうその白状をさせれた模様。恐らくは北条政子らの策略である。)
 1193年8月17日、源範頼は伊豆・修善寺に幽閉され、ほどなく幕府軍に攻められて討死したと言われているが、自害した、別の地に逃げたと言う諸説がある。
 当麻太郎は、当時源頼朝の娘大姫が病だった為、死罪を免れ、同じ8月17日、日向国島津庄の地頭として赴任する島津忠久に同行し九州に下り喜界島へ流刑となった。源頼朝の死後、島津氏の家臣に向い入れられたが、のちに自決。子孫は日向の新納院(にいろいん)に住み、新納を姓とし島津家臣として長らく仕え、武勇も高かったと言う。
 それから360年のち、小田原北条氏の1559年頃に当麻三人衆と呼ばれた武士の名がある。

 このように、戦国時代に相模国を平定した伊勢新九郎(北条早雲)は当麻に関所を設置。
 当麻山無量光寺も近くにあり、門前市が定期的に開催されるなど、賑わっていたようだ。

 また、当麻豊後守の名が新編相模風土記に出てくるが、北条氏家臣名簿などにその名は見られず、また地元にも当麻豊後守の存在があった伝承もなく、良くわからない。
 戦国時代には津久井城とともに武田信玄や上杉謙信の南進に備えて、烽火台が築かれたとの伝承もある。
 小田原城が豊臣軍に攻められた際には、当麻豊後守らが当麻城に立て籠もったと言う。
 しかし、当麻城にて戦闘があったり、開城したなどの記録は残っていないため、豊臣秀吉も玉縄城同様に、無視したものと推測される。

> 相模原の戦国時代ヒストリア

 

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