下溝城(下溝堀之内) 探訪記・写真

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 鳩川と道保川に挟まれた字下原地区(下原交差点の東一帯)が下溝城(下溝堀之内)の城跡。
 昔あった井上農園が大手と伝わる。
 大手から中に入って行くと、細い道は何度もクネクネと折れ曲がり、進んでもなかなか中心部にたどり着けない。
 このような防御を考えた集落は全国に多数存在し豪族屋敷(堀の内)と呼ばれており、領主の住んだ場所とされる。

 地図には記載されていないが、地元では「堀の内」と呼ばれ、周囲を泥田が囲み、堀で囲まれた集落だったようだ。

 防御目的もあったことから、下溝城と呼ぶ方もいるが、実際には下溝館と言った方が正解だろう。
 道保川の蛇行をうまく利用したもので、堀も幅約30m、深さ約5~7mあったらしいが、現在はほとんど埋められて住宅地になっている。

 いつ頃からあったかは不明だが、戦国時代1548年頃には、小田原北条一族の油井源三の所領の一部であった。油井源三はのち滝山城・大石氏の養子となって八王子城主になった北条氏照である。滝山城に入ってからも、油井領として所領していたようで、北条氏照の娘・貞心が武蔵・葛西郷渋江に39貫文を知行した北条氏家臣・山中大炊助(栃木県佐野の城代とも)と婚姻した際に「化粧田」としてこの下溝の堀の内を与えたと言う記録がある。

 貞心の夫は早死し、貞心尼となり、一人娘も入水したと伝わり、2人を弔う為、貞心尼は堀の内で一生を終えたと伝えら、貞心尼に随従してこの地に来た井上図書は堀の内に、福田兵庫助忠光は新屋敷にそれぞれ居住して村民となり、子孫は今日に至り、近年まで堀の内の住民の大半は「井上」という苗字であった。

 下溝堀の内

 貞心尼は荒れていた下溝天応院を再興した。
 貞心尼の死後、堀の内東奥の祠(ほこら)に山中貞心神社として奉られた。(上記写真)
 山中貞心神社の場所は下記の地図ポイント地点。

 

 参考文献 相模原の史跡

 → 相模原の戦国時代ヒストリア一覧

 

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コメント

    • 通りすがり
    • 2019年 1月 28日

    初めまして。この記事の、井上図書の末裔のものです。私が中学生になる前(1970年代前半)まではちゃんと堀がありました。「堀之内」に入るには橋を渡らねばならなかったですね。その頃の写真とかあればよかったのですが。。。ありません。
    下原の交差点から堀之内方面に向かっていく道で、右手に大きな木が立っている交差点があります。そこを左手に曲がっていく方向が堀之内ですね。そこに橋がかかっていました。橋の右側は大部分田んぼでしたが、左側は堀のままでした(1960年代終わりごろ)。
    今でも地元民には「堀之内」で通じます。

    父の実家は、上記の交差点を右に曲がって坂を上って行ったところの右手にある大きな屋敷がそうです。祖父が建てた家です。昭和初期に建てたものだと思います。私が小学生の頃までは茅葺屋根でした。そういえば、葺き替えしてるのを一度見ました。現在は茅葺屋根の上にトタン張りじゃないかと思います。
    曾祖父の時代に堀之内から出て家を建てたそうです。その家(私から見れば総本家)はもうありません。父の実家の左隣にあったのですが。。。

    こういった地元の歴史、なかなか文章できちんと残っていないので(父の従妹が天応院に残る古文書等を調べたらしいです)、このような形で残していただけるとありがたいです。

    ちなみに、現在自民党の甘利明議員の母親は福田家出身(のはず)です。甘利明氏の父親、甘利正氏の奥方が福田家の方のはずで、一時期、福田家の門には「甘利 正」の表札がかかっていましたね。今は「福田」に戻っていますが。

    では、お邪魔しました。

      • yasu
      • 2019年 1月 31日

      通りすがりさま、コメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
      また、何か情報などございましたら、ぜひ、お知らせ賜りますと幸いです。
      末永く、ご繁栄されますこと、心よりお祈り申し上げます。

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