津久井城と矢部氏の足跡 (2)  津久井氏を検証

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津久井城を築城したとされる津久井為行

相模原市の津久井に館を構えたのは、鎌倉時代初期の「津久井為行(筑井為行)」で、その津久井氏の名前が地名になったと言う説がよく見かけられ、津久井城のコーナーでも紹介させて頂いた。
別の説では津久井為行の父・津久井義行が津久井城の祖と言う説もあるが、津久井為行説が支持される要因としては、津久井城本丸跡にある「碑」にある。その碑の名は「築井古城記碑」。
この碑は、江戸中期の1816年に、戦国時代津久井城主だった内藤氏の家臣、島崎氏の末裔で、当時の根小屋村名主・島崎律直が5万両を出費し建立したもので、津久井城の地形や沿革、内藤氏の系譜、建碑の由来等が記されている。題額者は白川少将朝臣(江戸幕府老中首座の松平定信)、選者は題額頭林衛、書者が国学者屋代(源)弘賢、そして碑文を刻んだのが広瀬群鶴と、製作には当時の一流名士が関わっていた。
その碑によると、三浦一族の築井太郎次郎義胤が津久井城を始めて築いたとしている。
築井太郎次郎義胤は別名として、築井太郎二郎義胤、津久井二郎、津久井次郎、築井義胤、津久井義胤、筑井為行ともあり、ここでは一般的な名である津久井為行として以後説明する。

津久井氏を検証してみる

津久井為行は、桓武平氏良文流と桓武天皇の先祖を持つ常陸平氏から出た名門・三浦一族で、もともとは横須賀市津久井に住んでいたとされる。その津久井氏に関連する人物を追い、本当に横須賀の津久井氏が、相模原の津久井にやってきたのか、検証してみる。

源頼朝に味方して、鎌倉幕府の設立に大きく貢献した名門三浦一族の当主・三浦義明。
その次男・三浦義澄(みうら よしずみ)は別名「矢部の二郎」と呼ばれており、相模国三浦郡矢部郷(現在の横須賀市大矢部・小矢部)に館を構えていたと考えられる。実際に三浦義澄(矢部次郎)の墓は横須賀市大矢部の薬王寺跡である。
よって、三浦義澄(矢部次郎)が、本家三浦氏から分かれた矢部氏の祖と考えても良い。

三浦義明の弟・三浦義行は、相模国三浦郡津久井郷 (現在の横須賀市津久井) に館を構え、津久井氏と呼ばれるようになったとされる。
この頃、三浦本家の居城は衣笠城(横須賀市衣笠町)で、地図をご覧頂ければわかるが、隣接した小矢部城は三浦義澄の居城とされる。このように当時、三浦半島のほとんどは三浦一族が支配していた。

 津久井家(筑井家)・矢部家系図 ※旧サイトにて表示中

 上記の家系図では省略しているが、三浦一族には男児が多数生まれ、三浦半島を中心に各地にそれぞれの拠点に「館」を構えている。その館に入った一族はその地の地名で名前を呼ばれるようになり、例えば大田和に入った三浦義久は大和田義久と呼ばれ、岡崎(平塚市)に居住した三浦義実は岡崎義実と呼ばれたのと同じように、津久井(横須賀市)に本拠を構えた三浦義行は、津久井義行と呼ばれた。

三浦本家の分家とも言える津久井氏については良くわからないことが多いが、津久井義行の子・津久井為行は、和田合戦直前の1180年から1200年頃の20年の間に、誕生したのは間違えなさそうだ。
また、横須賀市津久井の東光寺に津久井一族の墓があり、その中央の墓が津久井義行の墓とされ、津久井為行の父・津久井義行は横須賀の津久井にゆかりがあることがかわる。

三浦義村には矢部禅尼と言う、鎌倉幕府3代執権・北条泰時に嫁いだ娘がいる。矢部禅尼の名は恐らく、衣笠城近くの矢部にでも住んでいたことからその名前で呼ばれていたものと推測できる。

 

津久井城と矢部氏の足跡 (3) に続く

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