相模原の新田開発と呼ばわり山

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 江戸時代後期になると、各藩や幕府の財政を立て直す為、石高を上げる施策として「新田開発」が全国で行われました。
 新田開発とは、その名の通り、新しい田んぼを作って、収穫を上げることです。
 水の確保が難しい相模原で新田開発?と思われるかも知れませんが、是非ご覧ください。

 清新として名が残る清兵衛新田

 清兵衛新田は、小山村の豪農、原清兵衛光保が開発した新田。
 原氏は、甲斐・武田旧臣の原胤歳(原大隈守)(?~1584年)の子孫とされており、武田滅亡後橋本で代々名主を務め、農業を中心に醸造業や質屋などを営んでいたと言う。現在でも原グループとして相模原市内や近郊でレジャー施設などを経営している。
 さて、新田開発の方は、1843年に20日間かけて、見分・小割された。新田と言っても、相模原の新田はそのほとんどが水の便が悪く、田んぼではなく畑として開発している。
 井戸は15掘るものの33m以上掘らないと水が出ないと言う苦労だったようだ。
 入植者は10年間に49名迎え、農具・家屋はすべて原清兵衛光保が与えたと言う。しかし、生産性は低く、税金が払えず田畑を売る者も出て、生活には苦労したと言う。
 清兵衛が開発した新田は、清兵衛新田と呼ばれ、氷川神社の境内には徳川慶喜が書いたという記念碑が建っている。現在は「清新」と地図に記載されて地名が残されている。

 矢部新田

 矢部新田は矢部1丁目~4丁目、富士見2丁目・3丁目の辺りである。
 土地はやせており、水の便も悪く、農耕するには適さない地であったが、江戸の商人・相模屋助右衛門が開墾した。
 ときは、1673~1681年頃の江戸時代。戦乱の世が終わり平和であったが、甲州出身で江戸で商いを成功させた相模屋助右衛門が、江戸と甲府を往来するのに甲州街道を通ると公用人馬や武士の往来で思うように通行できなかったり、雲助たちに金品をゆすれるといった事もあった為、与瀬(相模湖町)から津久井を抜けて江戸に行く裏街道を利用していた。
 そして、現在の矢部にある村富神社がある辺りまで来ると、馬の荷を下ろして休むのが恒例となっていた。
 現在、村富神社がある土地には、古くから松の木があり、街道からの目印にもなっていたようだ。
 なお、別のページでも触れているが、相模原台地は、その名の通り、日本列島が出来て以来ずっと、ウサギも飛び跳ねるような「原っぱ」であり、現在、市で保存しているような雑木林は昔はなかった。雑木林は、江戸時代に入ってから新田開発したあとに、住民が生活するうえでの燃料「蒔き」を得る為に、広大な原っぱにクヌギなどを植林したものが、市域全体に広がったもので人工林なのだ。
 この矢部の松の木がある地には旅人が焚き木をして泊まった跡もあったので、ここに半農半商の宿泊施設があったら便利だろうと江戸幕府の許可を得て相模屋助右衛門が新田開発した。
 村富神社の街道沿いに木銭宿のほか、油屋・鍛冶屋・質屋・雑貨屋などが並んだと言う。
 もともと地主になるつもりがなかった相模屋助右衛門は、それらの開発した地を開拓に協力した農民にはただ同然の値段で売却するなどし、1684年に代官・成瀬五左衛門により検地が行われた。
 しかし、村富神社近辺以外は未墾だったと言う。村富神社付近は、江戸方面、津久井方面、座間方面へと繋がる街道の分岐点になっており、江戸時代後期まで津久井の商人などの往来で賑わったようだ。
 そして、この地から相武台方面に続く幹線道路は、通称「村富線」と市民に呼ばれている。

 呼ばわり山

 相模原にある神社に行くと、人工的に土を盛って、数メートルの高さのこんもりと小さな「山」がある神社をいくつか見かる。
 高さ数メートルの山(丘)だが、実はかなり昔の時代に住民が作った小さな山で「呼ばわり山」と呼ばれている。
 相模野は広大な原野で草が生い茂り、その背の高い草原の中を歩いていると、方向が分からずに迷子になる人が発生していたのだ。
 古来より無くし物や行方不明者が出た時、この小丘に登り、3回大声で呼ばわると、必ず帰ってくると言い伝えられている。
 実際には、大きな音が鳴る鐘や太鼓をたたいて「迷子の迷子の誰それやーい」と叫んだようである。現在で言わば、防災無線のような役割を果たしていたのだ。

 参考

 相模原の歴史など

> 相模原の戦国時代ヒストリア